・迷宮

自分が異端の存在であるように感じたことはあるだろうか。私はある。生きている世界からの疎外感があり、理解者なんて1人もいなくて、自分の考えていることが全てから外れている理屈の通らないただの感情論だと気付き、あぁどうしたらいいのか、誰かに受け入れてもらいたいのか1人で居たいのか、独りになることは叶わないのか、ぐるぐる考えたことがあった。

 

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『迷宮』中村文則


中村文則の書く小説は何故こんなにも私を苦しめるんだろうか。主人公の新見の気持ちなんて分かるわけがないし、私から見たら新見は異端だと思えるのに、どうしたって私と似ているのだ。
彼のように精神科に通院するように言われたことはないし、その必要もなかった。自分の中にもう1人の人格を作り出すこともなかったし、親に捨てられたこともない。それなのに、彼の考えや行動に理解がある。同意してしまう。
私はおかしいのだろうか。精神異常者なのだろうか。
このことから分かるのは、この世界に生きている人きっと全てが異常であるということだ。みんな何処か壊れている。壊れているのを隠していたり、必死に修理して何事も無いかのように生きている。側から見れば、精神異常者のような行動も、当の本人にすれば、それを行うことで精神を保っている可能性も大いにあるのだ。私たちは他人のことを何にも理解していない。自分の基準なんて、思っている以上に簡単に壊れる、壊される。

新見と紗奈江との関係は恋人とは言えなかった。しかし、最後は入籍する。新見も付き合いが生まれた時は、愛と思っていなかっただろう。彼は何度も、なんとなく彼女の部屋に向かった。仕事帰り、暇になった時何度も。好き、だなんて全く思ってなさそうに。
ごちゃごちゃ色んな考えがあって、この人の今の考えは本当の気持ちなんだろうかとか、これは本当に愛なのかとか疑うものがたくさんあっても、そんなもの取っ払って、気にしないで、それでもなんとなく一緒にいる。この考えは実はどんな言葉よりも動物的で自分の気持ちに素直な行動なのではないかと感じる。

 

 議論をする際には感情論は否定される。感情なんてものは人によって違うからだ。しかし自分に関することの多くは、自分の気持ちを基準に選択してきただろう。だからたまには、ここぞという時は、自分の気持ちを信じたい。生まれる前からすり込まれたDNAのように、本能とは理屈にも勝るものだと思うから。

 

 

 

 

・大嫌いな祖父のこと

 

父方の祖父が亡くなったのは去年の6月のことでした。その頃私の家と父方の祖父との連絡は途絶え、絶縁に近い状態でした。

最後に祖父母の家に行ったのは何時のことか分からないほどでした。唯一連絡を取っていたのは、長男である父だけでした。

祖母は5年程前から認知症を患い、話すことも出来ず、長い間入院しています。今もです。祖父は祖母の介護を自分1人でやると言い、周りの冷静な声にも耳を傾けず、1人で介護をしていました。

私や姉が小さい頃は、少し短気で、怒ると暴力的なおじいちゃん(十分怖いな)という感じでしたがそれ以上でもそれ以下でもなかったです。しかし20歳も超えた私が知ったことは、父方の祖父母は私の母のことが気に入らず、長い間嫌がらせをしていたということでした。それはそれはもう気の滅入るような陰湿なもので、私は今でも許すことは出来ません。母はそのつらさを私や姉にバレないようにずっと隠していたのです。知りませんでした。

 

そんな祖父の最期は、脳梗塞でした。

1人で介護をしている祖母を車に乗せ、いつも通院する病院に車を走らせている途中で起こったようです。なんとか病院の駐車場に車を停め、車から降り、倒れ、それからあっという間に亡くなりました。車を走らせている時に意識を失っていたらたくさんの人を巻き込んだ大事故になったかもしれません。だから酷い頭痛の中、必死に車を停めようとしたのではないかと検死を担当した医師に父は言われたそうです。車は駐車場の線に対して斜めに停められ、必死さが伝わりました。また、脳梗塞を起こした祖父の脳はレントゲンに写すと半分が真っ白だったそうです。半分が石のように固まってしまっていたそうなのです。よくこの状態で生きられたものだ、相当な激痛だっただろうし、性格が荒かったのもこの脳のせいだろうと医師に言われました。

遺品を整理しに向かった祖父の家には、市販の頭痛薬がたくさん、至る所に置いてありました。痛かったのでしょうね。

 

私はあなたの事をずっと恨んでいました。私の母を苦しめ父を苦しめてきたあなたを。でも何も知らなかった。恨むにはあなたの人間性を知らな過ぎたと今は思います。本当は大学に通いたかったけれど家にお金が無いからと職についたこと。それでも勉強したいと、沢山の文学作品を読み漁り、英語のテキストを何冊もこなしたこと。何も知らなかった。知ろうともしませんでした。ごめんなさい。今でも両親を苦しめた存在として許すことは出来ませんが、あなたの苦しみも知りました。どうか安らかに眠ってくれていれば良いです。

 

 

・歌、音楽

 

小学生の頃に文鳥を飼っていました。オスでした。メスかと思って育てていたら、求愛の歌を歌うようになったので、オスだと分かりました。白文鳥だと思って雛の頃から育てていたけれど、どうやら桜文鳥とミックスだったようでおじゃる丸の眉毛みたいに黒い羽毛がある子でした。

 

先に述べたように文鳥は、求愛のために自分で歌を作ります。卵から孵り、誰に教えられたわけでもないのに、遺伝子を遺すためにメスを探すし、メスを引き寄せるために歌を作るのです。

生物のゴールは、遺伝子を遺すことだと私は思います。だからその為に生物は力を尽くしますよね。カマキリのオスは、産卵を控えたメスの餌になって生を終えるし、苺は受粉するために蜜蜂を誘き寄せます。異性と会うため工夫を凝らします。鳥はダンスをしたり鳴き声がいかに勇ましいかなど沢山求愛の方法がありますが、文鳥は歌を選びました。

 

歌とは、音楽とは、生物が遺伝子レベルで反応してしまう心地よさとか魅力があるものなんだと最近思いました。上手く言葉に出来ませんでしたが。(笑)

なぜだかこのメロディに惹かれてしまう、この曲を聴くとなぜだか泣きたくなる、そんな風に歌は人を動かしてしまうものなのではないかと思ったんです。だから歌が好き音楽が好きという人はある意味とても生物らしいし、そういう人が集まっている部活やサークルやライブ会場なんかは、必然的に吸い寄せられてしまった場所のようにも思えます。どんな場所よりも、人間が生物らしく居られる場所のように感じました。

生物らしく何も飾らずに居られる場所というのは実はとても少ないです。自宅とか、もっと狭ければ自分の部屋のベッドとかの人も居るんじゃないでしょうか。だからそういう場所って大事にしたいし、そこで出会った人とは分かり合えることがたくさんあるんじゃないかなと思います。

 

余談ですが、

飼っていた文鳥が死んでしまったのは6月9日でした。語呂合わせでロック(Rock)の日と覚えています。

 

 

・夜の次は朝

“違う違う。本当の自分はこんなんじゃない!”という行動を取ってしまったり、言葉を言ってしまった経験はありますか?

私はあります。大抵そういう時は、後悔するのに、素直になれなくて謝ったり訂正することは出来ません。

又吉直樹『夜を乗り越える』を読んでいます。又吉さんは小学生時代に、自分を演じているという意識があったそうです。クラスメイトに本当の自分とは違うキャラクター設定をされてしまっているけれど、言い出せない、訂正出来ないという葛藤を抱えていたそうです。

 

本当は笑いたくないのに笑ったり、悲しいのに笑ったり、やりたくもないのにやったり、違うのに認めなきゃいけなかったり。そういう経験をした人は多いと思うし、私もあります。又吉さんの場合、担任の先生がそれに気付いてくれたことで、救われたそうです。

私もそうなりたいと思いました。担任の先生の様になりたい。現在私は21歳で、年齢的には大人になりました。もし小学生の男の子が無理をしているなら、苦しんでいるのなら、それに気付いてあげられる人間、大人になりたいです。

また、又吉さんは、子供の自分に対して大人の人が対等に向き合ってくれたということに感動したとも書いていました。3月のライオンという漫画にも似たような場面があります。小学生の主人公・零に対して、幸田さんは対等に向き合ってくれる人でした。そして零も、又吉さんの様に感動していました。伊坂幸太郎『ガソリン生活』では、小学生の亨は大人よりも大人な考え方をする子供という様に描かれていました。私たちが思っている以上に、子供は考えていて、私たち大人は子供以上に残酷なのではないかと感じてしまいました。子供だからといって侮ってはいけないし、対等に向き合う。また、苦しんでいる人は子供に限らず、気付いて助けてあげられる人になりたい、そう思いました。

 

歳を重ねるごとに、幼い頃の記憶は消され忘れていきます。それでも自分の考えを覆したものや出来事、考え方などは覚えているでしょう。また、忘れたと思ったことも、ワックスの匂いを嗅ぐと小学校の教室を思い出すように、ふとしたきっかけで思い出すこともありますね。今まで自分を紡いできた何かを大切に、人に優しくありたいと改めて思いました。

 

 

・the dog days are over

 

戦車の出す火花が美しく見えたことがある。テレビ画面に映った戦車だった。遠い国で人を殺している。まるで線香花火の火花の様に見えてしまった。自分とは関係の無い場所で、身近なものではないからそう感じたんだろう。そう感じることが出来たんだろう。

綺麗だなと思った直後、なんて最低な事を...と思った。人を殺している火花が美しいだなんて無神経だし、命を愚弄している。

刀や銃も人を殺す。でも美術館に行けば、歴史のある日本刀は美しいものとして飾られるし、銃の愛好家だって世の中にはたくさん居る。銃のプリントがされた洋服なども街で見かける。人を傷つける、殺す道具であっても、片や美しいもの、お洒落なものとして扱われているのは、どこか不思議に感じる。

不謹慎とは思わない。むしろ人間は強い、かっこいいと思う。だって自分のことを殺す道具がプリントされた服や小物をファッションとして取り入れている。こんな道具、怖くもなんともないという主張に見えなくもない。校則に超厳しい体育教師の目の前を金髪で通り過ぎるようなそんな感じがする。変な例えだな。(笑)

 

 

 

 

・不幸になりたがる人々

4人に1人が本気で死にたいと思ったことがあるらしい。人によって本気の度合いはもちろん違うだろう。口癖のように死にたいと口にする人もいるだろうし、死のうと思ってナイフを手にした人もいるだろう。
電車に飛びこんだり、窓から身を投げたりする中学生がいる度にニュースになる。話題になる。誰かが止められなかったんじゃないかと、さも自分が近くにいる存在だったら止められる自信があるとも言いたげにコメンテーターは悲しい顔をして話す。

 

 

どう思うんだろう。

 

 

自分の気持ちなんて自分以外が完璧に理解出来るはずないのに、君の気持ち分かるよという顔で赤の他人が語り出す。腹が立たないんだろうか。その悲しそうな顔はなんだよと言いたくならないんだろうか。CMがあければ、すぐに遠い国の有名な女優の離婚の話やスケートボードが出来る犬の話を楽しげに大笑いしながら話すだろ。腹が立たないんだろうか。死んだ自分のことなんか悲しいフリでしかない。自分が死にたいほど悩んだことや死ぬほど味わっていた辛さも自分の外に出てしまえば石ころより軽いものだったんだ。人間は残酷。その残酷さに嫌気がさしたんだろうか。だから死んだんだろうか。

死なないでなんて言えないし、死ぬことを止めるつもりもない。私も残酷な人間の一人で、人が死んだというニュースが流れても、好きな人と夜ご飯を食べに行くことの方が楽しみで重要だし、明日はバイトが無いことに幸せを感じるし、相変わらずアジカンはかっこいいと思うし、アイスクリームが食べたいなと思っている。言いたい事はあまりないけど、それでも、後悔だけはしない方が良いよと思う。好きな人に好きだって言うこと、謝りたかった人にちゃんと謝ること、一番優しくしてくれた人に御礼を言うこと、借りてた本を図書館に返すこと、金木犀の香りを知らない人と金木犀を探す散歩をすること。何かないかな。死ぬ前に。

隣の国では、よく金の問題で追い詰められた政治家や会社の社長が自殺する。多分牢屋に入れられるより、周りの人間に非難されるより死を選ぶんだろうな。でも彼らは自業自得だろう。犯罪を犯したのだから何らかの形で罰せられるのが当然だ。でもだからって死に逃げるのはどうだろうと私は思うよ。あたかも真実を追求していた周りの人が殺したような構図になってしまうし、死ねば何もかも許されると思っているのが許せない。死んだって許されない事はたくさんある。
精神的な困窮で自殺しようとする人に言いたいことは、あなたは悪いことをしたのかなということ。いじめられて死にたくなった人は悪いことをしたのかな。何も悪く無いんじゃないの。じゃあなんで死ぬの。相手が死ぬべき、後悔すべきなんじゃないの。
何か悪いことをしてしまって死のうとしている人は、死ねば許されると思ってるのかな。舐めないで欲しいな。死ねば許されるなんてことはこの世に無いんだよ。その汚い精神引きずって死にたくなるくらい苦しんで生きるのが贖罪だろうと思うよ。

 

 

全部私が思っていることだから気にしないで。

・従順な気持ち

 

小学6年生の男の子が父親に殺された。理由は受験勉強をしなかったから、だそうだ。

 

私は学習塾の受付、事務のアルバイトをしていたことがあるから小学生の受験については詳しい方だと思う。年々激化していることも、親が子供に実力以上の期待をしてしまっているところも目にしたし、外で遊びたい気持ちをグッと我慢して机に向かっている小学生も見てきた。小学生の彼ら自身が明確に、ここに行きたい、この学校に通って勉強したいという意志があるなら我慢も必要で、合格に向けての茨の道を進む覚悟を持てと言うと思うし、遊んでいたら怒るだろうな。ライバルは今この時も勉強してるんだぞって言うかもしれない。親が今この時間も働いたお金で君はここに居るのだから勉強して恩返しするのが筋だろうと言うと思う。

でも残念ながら、中学受験とは、親が受験させることの方が多い。だから結果的に勉強したくないし、遊びたいのに勉強しなきゃいけない、楽しくないのに机に向かわなきゃいけないという状況が出来上がる。

勉強したくないという生徒をたくさん見てきた。お気に入りの先生が辞めたから僕も辞める、辞めてずっとやりたかったバスケットボールをやると塾を辞めていった生徒もいる。先生が辞めたくらいで受験止めるの?!と言う人もいるかもしれないけど、それがその子の一番やりたい事で人生の選択なんだ。それくらいのスタンスで良いんだよ、中学受験は。本当はね。

だって中学受験に落ちたって公立の中学校があって、そこで勉強してトップクラスの高校に進学、大学に進学することなんて余裕で出来る。中学受験に失敗したくらいで人生をやめる必要なんて無いんだ。また、人生をやめさせる必要だって無い。絶対に無い。

 

亡くなった男の子の将来はどんな可能性があっただろうか。嘘臭いかもしれないけど、それこそ無限大だった。中学受験にもしかしたら合格してたし、中学生から始めたバスケットボールで全国優勝、高校では全国模試1位になる、ブラックジャックに心打たれ医師を目指す...なんて彼のことを何も知りもしないけど、そんなこともあったかもしれない。あったかもしれない未来だ。

 

江戸時代から親殺しは極刑に処された。でも子殺しは極刑でなくて、生きて帰れる。現代でも確かそう。親殺しの方が罪が重い。子供がうさぎのケージに閉じ込められてご飯を与えられずに衰弱死したとしても9年塀の中に居れば外に出られる。そんな世界だ。あくまで私の意見なんだけれど、親よりも子供の残された未来の方が長い。だから子供の命が奪われることの方がずっとずっと残忍なことだと思う。残された未来の可能性は、9年なんかじゃ取り戻せないもっともっと大切なものだったはずだ。いや一生経ったって取り戻せるはずがない。

怒って仲直りした後のぎこちない笑顔、熱が出たら心配してくれる優しさ、体調が悪い時に作ってくれるお粥の美味しさ、遠出した時に撮った写真。家族にはそんな何でもないけど胸が温かくなるようなくだらない思い出があるだろう。信頼していた父親に殺された彼はどんな気持ちだったかな。受験なんてそんなものに命を奪われた彼はどんな気持ちだったかな。

絶対忘れないで欲しい。子供はどんなに虐待されたとしても親を覚えてる。世界からこんなに悲しいことを消してくれ。