・窓から射し込む西日

 

木皿泉という脚本家(または作家)がいる。数々のドラマを生んできて、母や私はそのドラマたちを毎週たのしみにしていたし、録画してあるものは今でも見返しています。

野ブタをプロデュース』『セクシーボイスアンドロボ』『すいか』『Q10』『昨夜のカレー、明日のパン』など。一つは耳にしたことのある作品があるのではないでしょうか。

生きていう中で、というのは大袈裟かもしれないけど、自分の生活の中で出会う人がみんなドラマの登場人物のような人だったら私は幸せでたまらないと感じることがあります。木皿泉の描く人間はなかなか画面に映らない端役であっても魅力的な人物です。

 

この先、私はずっと誰かに何かを伝えなければいけないんだ 。私の心の中はわたししか知らないんだから。

 

私を救えるのは、宇宙でわたしだけだから

 

好かれようとか、うまくやろうとか...いいんだよ、そういうの。そういうの、もういいんだよ。オレはもういい。自分ができることだけを精一杯、毎日やっていく。そうやって生きていく。そういうの、情けないか?

 

素敵な言葉ばかり。私は本を読むのが好きなので、好きな本が映像化されたりすることがあります。でも大体映像化されると、思っていたのと違っていたりがっかりすることがあります。木皿泉の作品は映像だからこそ美しいと思えるものばかりです。

射し込む西日の切なさや、湯気を立てている白米。まるで小学校の教室のワックスの匂いを思い出すようなそんな懐かしくも切ない気持ちにさせてくれます。

誰かに観てもらいたいなーと思いつつ、DVD化されていない作品もあるので家に来てもらって観てもらうしかないのかな(笑)

 『昨夜のカレー、明日のパン』は木皿泉が書いた小説として本屋大賞にノミネートもされました。映像だけでなくて、本も素晴らしかったので、ぜひ本を読んでみてください。

 

 

・小さい

 

一年半ほど前からハムスターを飼っています。それはそれは可愛くて、お世話も楽しかったです。

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食いしん坊でちょっと太っててお尻が大きくて歩くとぽよぽよしててね。可愛いよね。

 

そんな彼女ですが、昨日から大変具合が悪いんです。昨日は夜にグッタリしてしまって、もうこのまま目覚めないのかと思って大泣きしてしまいました。でも今日はちょっと元気でした。小屋から出て部屋を歩くことも出来ました。

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今日のぷーちゃんです。かぼちゃも沢山食べてくれました。このまま元気になってくれたらいいのですが。

昨日、ぷーちゃんが死んでしまうと思ったらたくさんのことを思いました。まずはあんなに小さい体で人間と同じくらい私に幸せを運んでくれたこと。食いしん坊でひまわりの種ばっかり食べて怒られてたこと。畳の部屋の隅が好きでいっつもそこに行って毛ずくろいをしてたこと。回し車を変な風に回してたこと。人一倍(ハムスター一倍??)臆病だったこと。全部全部大好きで大切な思い出でした。大好き。

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まだまだ生きようね。呼吸が苦しそうだから、苦しんでいたら悲しいけれど。もうちょっと一緒にいたいなぁ。真っ白でふわふわで優しくて寝るのが大好きなぷーちゃん。私の妹だもんね。大好きだよ。

 

 

・影響

昨日、大学院の授業を初めて拝聴しました。大学院というと難易度が今より上がるので、私の脳は付いていけるのか不安でしたし、教室に入ると人数が思ったよりも少なく、より不安になりました。しかし、講義を聞いていると私の好きな芥川龍之介や、エドガー・アラン・ポーなどの作家が例に挙がり、意外や意外、すんなりと1時間半集中して拝聴することが出来ました。

この講義には准教授に勧められて出席しました。彼女の講義は、哲学や社会学、文学など様々な分野に及びます。私はどの分野も得意ではないですが興味があるので多く受講してきました。

でもこの准教授の授業が苦手とか、理解が出来ないということで准教授自体を嫌っている友人がちらほら見られます。

確かに哲学や文学は興味がないとつまらないかもしれませんね。でもとても役に立つんです!ということを声を大にして言いたいです(笑)

人生の教訓になるような生き方、思想などたくさんの自分とは違う考えに触れることが出来ます。やはり、誰しもが自分の考えを柔軟に変えることを苦手としていると思います。私が常常思うのは、敵を知って自分をよりよく理解出来るのだということです。自分と反対の意見、または賛成できない事柄を敬遠してばかりでは判断のしようがありませんよね。でも敬遠してばかりですよね。彼女の授業の中で知る思想は賛成出来ないものもあれば、納得出来るものもあります。そこから自分の考えを作り上げることが可能になるんです。これはかなりの強みなのではと思っています。

 

さて、昨日拝聴した院の講義で私に一番響いた言葉は「この世に自分に関係の無いものは一つもない」というものでした。例えば明日の天気予報だったり、遠い国で誰かが生まれたことだったり、帰り道の花が咲いたことだったり、どうでもいい、関係ないと思えることも自分に関係するということです。日々を無意味に考えてしまいがちな私には忘れていた感覚でした。明日雨が降って傘を誰かに貸したことによって一生ものの友情が生まれるかもしれない。今日遠い国で生まれた誰かは数年後私と出会う1人なのかもしれない。全ての可能性がないとは言えない。そう思うと、自分に起こった一つ一つ、良かったことも悪かったことも意味があったように思えてなんだか納得出来る気がします。

 

一つ一つを大切に。たまに投げやりになるのもよし。もしかしたらそれが意味のある行為かもしれないから。

 

 

・大人

 

先日、以前のバイト先でお世話になっていた方とご飯に行きました。19歳年齢は離れていますが話していてとても面白い方で、今では上司と部下ではなく、月1で飲みに行く飲み友になっています。海外で暮らしていた時のこと、海外を自転車で旅した体験など私はきっと一生しないであろう経験をたくさんされている方で、色んな気持ちを教えてくれる方です。

当日会うまで、ステーキを食べに行こうという話だったのに、彼に案内されて到着したお店は見るからに高級そうな焼肉屋さん...。何時ものお礼を兼ねてるから会計なんて考えずに食べて!奢りだから!と言われて予約して下さっていたのはコース料理でした。一体幾らするんだか庶民の私には分かりませんでしたが、ご馳走になりました。

食事前に私が、自分の分は払います!と言ったところ「僕も昔、先輩に高級なすき焼きを奢ってもらったことがあってね、その時本当に嬉しかったし、その人の事を今でも尊敬してる。だから今度は貴方が後輩に奢ってあげるんだよ。そうやって人は繋がっていくんだよ。単純だけどね。」とちょっと照れくさそうに笑って話してくれました。

先に述べた経験もそうですが、たまにしてくれるご両親のお話、今の職業に就く前の会社の話、海外で受けた差別のお話...私より19年長く生きてるから、これだけのお話で私が感じ取る以上の色んな気持ちを味わってきたはずです。私が19年後、彼の年齢になった時に、私みたいなちんちくりんにこんなに優しく出来るのかなと思いました。こんな世間知らずで、勉強も出来なくて、友達付き合いも下手で、すぐ独りよがりになる卑屈な奴に、こんなに優しく出来る大人になれるんだろうか。未来がちょっと怖くなりました。

 

何か手に入れたと思える学生生活でなきゃいけないと焦ってとにかく本だけは読もうと、縋るように活字を追ってきました。最近成長したかな、と思うことがあります。世の中めんどくさくて辛くて理不尽なことが絶え間なくて、いっそ何もかも無くなってしまえば良いのにと思うことが多い。でも、気軽に会えて変な話をして笑ったり、美味しいお酒を飲んだり、馬鹿みたいな体験を馬鹿みたいに話して、じゃあまたね、と次があるのが絶対みたいに別れられる人が居るだけで、もう何もかも許せるんじゃないかと思えるようになりました。何か辛かったり独りを感じたりした時は、その時の感情に飲み込まれがちですが、ふっと客観的に自分を見た時に、もう充分じゃないかと肩の力を抜けるような。まぁいっかと言えれば上出来じゃないかと思えるようになりました。

そう言えば、彼の口癖も「まぁいっか」です(笑)塾の業績が悪化して大変なのに「まぁ、いっかな〜って(笑)」っと笑っています。良くないだろ!って時もありますが。でもそういう心持ちだからこんなに素敵な人なんだと思います。とても尊敬している人です。

 

私も19年後、誰かに尊敬して貰えるような人になれていたら、やっと大人になれるのかもしれません。

 

 

・時代?

人間は考える葦である

という名言はあれど、今の自分は何かを真剣に考えて生きているだろうか。私は即座に、はい、と答えることは出来ない。それは非常にもったいないことだと気づく。

森博嗣養老孟司との対談の中で、こんなことを言っていた。

「今の学生たちは、わからないことの答は、検索すればどこかにあると思っていますね。あまり、自分で考えて仮説を立てようとはしない。わからないことは、ネットで検索すれば見つかるはずだと信じているのです。学生に課題を出すと、たしかに一所懸命調べて、集めた情報でなんとか辻褄合わせをしようとする。だけど、それは研究ではありません。(中略)不思議なことがあれば、なにか理由がある。(中略)『どうしてかな?』と不思議に思えば、頭を働かせて想像するでしょう。小さい頃にそういう体験をしていないと、考えない大人になってしまうのではないかという気がします。」

(『文系の壁』著・養老孟司、株式会社PHP研究所、P.47-48より)

以前このブログで紹介した森博嗣の自伝的小説『喜嶋先生の静かな世界』の中で、主人公(森氏本人だと思われる)は3度の食事を忘れる程に研究に没頭していた。主人公が大学生として学んでいた時代ではPCが出始めた頃で、PCでのグラフの描き方などに時間がかかったり、PCの動かし方そのものが研究のようになっていた。

今では、ネットはスマートフォンという形で誰の手の中にも収まるものになり、24時間好きな時に好きなだけ使用することが出来る。それを森博嗣は危惧している。

考えない人間で溢れているのではないか、と。ネットが普通になった今、ネット上には嘘がはびこり本当と区別をつけにくい。嘘を簡単に信じる人も多い。今やPCは輝いていない、TVやラジオと同じありきたりな媒体になってしまった。その媒体に意識を吸い取られ考えふことを止めてしまっていないだろうか。私は止めてしまっている。考える力が弱ってしまっている。

 

私が感じたことは、時代のせいにするのは卑怯だ、ということだ。ネットが手元にあるからと言って考える力がある人はたくさんいる。結局は自分次第なのだ。ネットがあるから発展したことだらけの世界でその恩恵は無視出来ない。伊坂幸太郎の『モダンタイムス』という小説では、ネットで検索することが大変重要なキーとなる。私たちにはネットが必要だ。でもネットを作り出したのは人間であり、人間の脳はPCよりも賢いはずなのだ。それを無駄にしている人が多い。もちろん私も含めて。それはただの甘えだ。

 

胸を張りたい。あぁ考えた、と胸を張りたい。頭を使いすぎて糖分が欲しいな、と言いたい。だから今日から少しずつ考えてみる。千里の道も一歩から、なのだから。

 

・遮光

 

最近になって日射しが強くなってきた。目が眩むような強い日射しは苦手である。部屋のカーテンは開けたくない。帰宅して部屋に入ると、空気の入れ換えの為にカーテンと窓が開けられていることがある。眩しいし、自分の世界が開かれてしまったようでそわそわする。明るさに抵抗がある私には遮光カーテンはなくてはならない存在だ。

 

この本の主人公も光を遮っていた。それには理由がある。

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『遮光』中村文則

中村文則の作品は、まだ3冊しか読めていない。先日述べたように『土の中の子供』は私にとってかなりの衝撃だったが、この『遮光』という作品も侮れない。

嘘しか言わない青年は、嘘をつくことが普通だった。嘘をつくことに抵抗はなく、嘘が本当の様に口から出る。その時は特に何も考えていないようだ。そして彼は演技が上手かった。時には優しい性格の男性のように、またある時は頭の悪そうな大学生のように。振舞おうと思えばいくらでも演じられて、見破られることがなかった。周りの人間に嘘しかついてこなかったから、周りの人間は彼の本当を知らない。

しかし彼は、あることには嘘がつけなかった。それは恋人・美紀に対してだった。美紀は事故で亡くなった。それでも彼女は生きていると周りに嘘を言い続ける彼。その嘘は虚しいのに、周りの人間は気づかない。だって彼は嘘がとても上手いから。

主人公の青年が耐え切れず吐き出す美紀の死に対してのセリフは、彼が人間なんだと思えた瞬間だった。涙が出た。彼のように自分の行動も信じられなくなったら人は生きていけるのだろうか。今、頭を振ったのは演技か?あくびをしたのは演技か?咳をしたのは演技か?自分の行動まで疑い出してしまったら、きっと私は死んでしまう。狂ってしまう。彼にもその気持ちはあった。自分が自分でなくなる恐怖を彼も感じていた。しかし、傍から見れば彼は異常で、物語の終盤に向けて徐々に崩れていく。最後には...。

作品の後に作者本人による解説が載っている。そこで作者が言っていたように、主人公の彼は、あそこまでいかなければ永遠に救われなかったのだと私も思う。だから苦しい。異常者に見える彼の気持ちを読者である私たちは知っている。知っているから彼のことを異常者だなんて私は思えなかった。

ぜひこの作品を読んでもらいたい。私がおすすめする本はたくさんあるけれど、中村文則の作品はどれも素晴らしい。(何度も言う。まだ3冊しか読んでいない。)

 

ところで、私は本を選ぶ時にあらすじを読んで決めることが多い。最近手に取る本は芥川賞受賞作が多い。意識はしてないのだけど。芥川龍之介が好きだからかな、と思ったり思わなかったりしている。今読んでいる新書もかなり興味深い。好きな養老孟司の新書だ。ぜひ紹介したい。

 

 

・土の中の子供

暗闇の中、男の荒い息が聞こえてくる。必死に逃げ道を探しているが、取り囲まれてもう逃げ道がない。自分を照らすバイクのライト、鉄パイプを持つ姿も見える。まとわりつく汗が鬱陶しい。息はまだ乱れたまま。

目の前に映像が見える様な描写に惚れ惚れしてしまう。
取り囲まれた男がこの先どうなってしまうのか。鉄パイプや、男1人に対して大人数が居る構図からして、少なくとも明るい展開になることはないと予想出来る。鳩尾がずんと重くなる様な緊迫感、焦燥感を感じる。

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『土の中の子供』中村文則

何気なく手にしたこの本は、今後の私の人生において欠かせない1冊になった。大事にしたい本に出会うことはなかなかない。私は本を読むのが多くて月に10冊ほどであるし、1年間読んだとしても120冊程度である。そして世の中には数え切れないほどの書籍が存在しているから、出会う確率はほんの僅かだ。そんななか出会ったこの本。私の為にある本だと感じた。この作品は第133回芥川賞受賞作でもある。
主人公は親に捨てられ、孤児となり、親戚の家に預けられるが日常的に虐待を受けて育った。拷問の様に人の精神を蝕む虐待だ。(虐待に重いも軽いもないが。)
私は虐待をされたこともなく、思い返せば、両親に頭をぶたれるとか手を出されたことが殆ど無い。だから彼に共感することはなかったが、彼が生きていることにこんなに感動するのは何故なんだろうか。
表紙からも読み取れるように、この物語は暗い。「彼は光が入らない世界で倒れている。パッと見ただけでは生きているのか死んでいるのか分からない。胸が上下することでようやく生きているんだと認識出来た。」そんな印象がある本だ。表紙の黒い靄のような塊から滲み出る黒い筋。涙なのか、陰鬱とした記憶なのか、現在生きているなかで感じている気持ちなのか。どうしようもなく溢れる何かがこの本にはある。読んでいて痛い。心が身体が痛い。逃げられない。こんな辛さに向き合うなんて出来ない、逃げたくなる。それでも彼は生きていて、そんな彼の生き様に涙が出る。

何も上手く言えないのだが、この本の暗闇は光でもあるのだ。彼が何処かで生きていると思うと、私は明日も生きていこうと思える。(もちろんフィクションであるから、彼はいないんだけど。)

“そういう時、彼は自分に言い聞かせるように「それじゃあ思うつぼだよ」と言うことがあった。「不幸な立場が不幸な人間を生むなんて、そんな公式、俺は認めないぞ。それじゃあ、あいつらの思う通りじゃないか」”

主人公と孤児院で暮らした少年の言葉だ。小説内でも書いてあるが「あいつら」とは自分の親などではなくて、世界的な、大きな何かを指している。こんなに逆らって、負けないように這いつくばって生きてる少年少女が居る。自分の甘さを実感すると同時に、生きることを教わった。生きたい。生きたい。どうしても。死にたくない。是非手に取って欲しい作品である。