・夜の次は朝

“違う違う。本当の自分はこんなんじゃない!”という行動を取ってしまったり、言葉を言ってしまった経験はありますか?

私はあります。大抵そういう時は、後悔するのに、素直になれなくて謝ったり訂正することは出来ません。

又吉直樹『夜を乗り越える』を読んでいます。又吉さんは小学生時代に、自分を演じているという意識があったそうです。クラスメイトに本当の自分とは違うキャラクター設定をされてしまっているけれど、言い出せない、訂正出来ないという葛藤を抱えていたそうです。

 

本当は笑いたくないのに笑ったり、悲しいのに笑ったり、やりたくもないのにやったり、違うのに認めなきゃいけなかったり。そういう経験をした人は多いと思うし、私もあります。又吉さんの場合、担任の先生がそれに気付いてくれたことで、救われたそうです。

私もそうなりたいと思いました。担任の先生の様になりたい。現在私は21歳で、年齢的には大人になりました。もし小学生の男の子が無理をしているなら、苦しんでいるのなら、それに気付いてあげられる人間、大人になりたいです。

また、又吉さんは、子供の自分に対して大人の人が対等に向き合ってくれたということに感動したとも書いていました。3月のライオンという漫画にも似たような場面があります。小学生の主人公・零に対して、幸田さんは対等に向き合ってくれる人でした。そして零も、又吉さんの様に感動していました。伊坂幸太郎『ガソリン生活』では、小学生の亨は大人よりも大人な考え方をする子供という様に描かれていました。私たちが思っている以上に、子供は考えていて、私たち大人は子供以上に残酷なのではないかと感じてしまいました。子供だからといって侮ってはいけないし、対等に向き合う。また、苦しんでいる人は子供に限らず、気付いて助けてあげられる人になりたい、そう思いました。

 

歳を重ねるごとに、幼い頃の記憶は消され忘れていきます。それでも自分の考えを覆したものや出来事、考え方などは覚えているでしょう。また、忘れたと思ったことも、ワックスの匂いを嗅ぐと小学校の教室を思い出すように、ふとしたきっかけで思い出すこともありますね。今まで自分を紡いできた何かを大切に、人に優しくありたいと改めて思いました。

 

 

・the dog days are over

 

戦車の出す火花が美しく見えたことがある。テレビ画面に映った戦車だった。遠い国で人を殺している。まるで線香花火の火花の様に見えてしまった。自分とは関係の無い場所で、身近なものではないからそう感じたんだろう。そう感じることが出来たんだろう。

綺麗だなと思った直後、なんて最低な事を...と思った。人を殺している火花が美しいだなんて無神経だし、命を愚弄している。

刀や銃も人を殺す。でも美術館に行けば、歴史のある日本刀は美しいものとして飾られるし、銃の愛好家だって世の中にはたくさん居る。銃のプリントがされた洋服なども街で見かける。人を傷つける、殺す道具であっても、片や美しいもの、お洒落なものとして扱われているのは、どこか不思議に感じる。

不謹慎とは思わない。むしろ人間は強い、かっこいいと思う。だって自分のことを殺す道具がプリントされた服や小物をファッションとして取り入れている。こんな道具、怖くもなんともないという主張に見えなくもない。校則に超厳しい体育教師の目の前を金髪で通り過ぎるようなそんな感じがする。変な例えだな。(笑)

 

 

 

 

・不幸になりたがる人々

4人に1人が本気で死にたいと思ったことがあるらしい。人によって本気の度合いはもちろん違うだろう。口癖のように死にたいと口にする人もいるだろうし、死のうと思ってナイフを手にした人もいるだろう。
電車に飛びこんだり、窓から身を投げたりする中学生がいる度にニュースになる。話題になる。誰かが止められなかったんじゃないかと、さも自分が近くにいる存在だったら止められる自信があるとも言いたげにコメンテーターは悲しい顔をして話す。

 

 

どう思うんだろう。

 

 

自分の気持ちなんて自分以外が完璧に理解出来るはずないのに、君の気持ち分かるよという顔で赤の他人が語り出す。腹が立たないんだろうか。その悲しそうな顔はなんだよと言いたくならないんだろうか。CMがあければ、すぐに遠い国の有名な女優の離婚の話やスケートボードが出来る犬の話を楽しげに大笑いしながら話すだろ。腹が立たないんだろうか。死んだ自分のことなんか悲しいフリでしかない。自分が死にたいほど悩んだことや死ぬほど味わっていた辛さも自分の外に出てしまえば石ころより軽いものだったんだ。人間は残酷。その残酷さに嫌気がさしたんだろうか。だから死んだんだろうか。

死なないでなんて言えないし、死ぬことを止めるつもりもない。私も残酷な人間の一人で、人が死んだというニュースが流れても、好きな人と夜ご飯を食べに行くことの方が楽しみで重要だし、明日はバイトが無いことに幸せを感じるし、相変わらずアジカンはかっこいいと思うし、アイスクリームが食べたいなと思っている。言いたい事はあまりないけど、それでも、後悔だけはしない方が良いよと思う。好きな人に好きだって言うこと、謝りたかった人にちゃんと謝ること、一番優しくしてくれた人に御礼を言うこと、借りてた本を図書館に返すこと、金木犀の香りを知らない人と金木犀を探す散歩をすること。何かないかな。死ぬ前に。

隣の国では、よく金の問題で追い詰められた政治家や会社の社長が自殺する。多分牢屋に入れられるより、周りの人間に非難されるより死を選ぶんだろうな。でも彼らは自業自得だろう。犯罪を犯したのだから何らかの形で罰せられるのが当然だ。でもだからって死に逃げるのはどうだろうと私は思うよ。あたかも真実を追求していた周りの人が殺したような構図になってしまうし、死ねば何もかも許されると思っているのが許せない。死んだって許されない事はたくさんある。
精神的な困窮で自殺しようとする人に言いたいことは、あなたは悪いことをしたのかなということ。いじめられて死にたくなった人は悪いことをしたのかな。何も悪く無いんじゃないの。じゃあなんで死ぬの。相手が死ぬべき、後悔すべきなんじゃないの。
何か悪いことをしてしまって死のうとしている人は、死ねば許されると思ってるのかな。舐めないで欲しいな。死ねば許されるなんてことはこの世に無いんだよ。その汚い精神引きずって死にたくなるくらい苦しんで生きるのが贖罪だろうと思うよ。

 

 

全部私が思っていることだから気にしないで。

・従順な気持ち

 

小学6年生の男の子が父親に殺された。理由は受験勉強をしなかったから、だそうだ。

 

私は学習塾の受付、事務のアルバイトをしていたことがあるから小学生の受験については詳しい方だと思う。年々激化していることも、親が子供に実力以上の期待をしてしまっているところも目にしたし、外で遊びたい気持ちをグッと我慢して机に向かっている小学生も見てきた。小学生の彼ら自身が明確に、ここに行きたい、この学校に通って勉強したいという意志があるなら我慢も必要で、合格に向けての茨の道を進む覚悟を持てと言うと思うし、遊んでいたら怒るだろうな。ライバルは今この時も勉強してるんだぞって言うかもしれない。親が今この時間も働いたお金で君はここに居るのだから勉強して恩返しするのが筋だろうと言うと思う。

でも残念ながら、中学受験とは、親が受験させることの方が多い。だから結果的に勉強したくないし、遊びたいのに勉強しなきゃいけない、楽しくないのに机に向かわなきゃいけないという状況が出来上がる。

勉強したくないという生徒をたくさん見てきた。お気に入りの先生が辞めたから僕も辞める、辞めてずっとやりたかったバスケットボールをやると塾を辞めていった生徒もいる。先生が辞めたくらいで受験止めるの?!と言う人もいるかもしれないけど、それがその子の一番やりたい事で人生の選択なんだ。それくらいのスタンスで良いんだよ、中学受験は。本当はね。

だって中学受験に落ちたって公立の中学校があって、そこで勉強してトップクラスの高校に進学、大学に進学することなんて余裕で出来る。中学受験に失敗したくらいで人生をやめる必要なんて無いんだ。また、人生をやめさせる必要だって無い。絶対に無い。

 

亡くなった男の子の将来はどんな可能性があっただろうか。嘘臭いかもしれないけど、それこそ無限大だった。中学受験にもしかしたら合格してたし、中学生から始めたバスケットボールで全国優勝、高校では全国模試1位になる、ブラックジャックに心打たれ医師を目指す...なんて彼のことを何も知りもしないけど、そんなこともあったかもしれない。あったかもしれない未来だ。

 

江戸時代から親殺しは極刑に処された。でも子殺しは極刑でなくて、生きて帰れる。現代でも確かそう。親殺しの方が罪が重い。子供がうさぎのケージに閉じ込められてご飯を与えられずに衰弱死したとしても9年塀の中に居れば外に出られる。そんな世界だ。あくまで私の意見なんだけれど、親よりも子供の残された未来の方が長い。だから子供の命が奪われることの方がずっとずっと残忍なことだと思う。残された未来の可能性は、9年なんかじゃ取り戻せないもっともっと大切なものだったはずだ。いや一生経ったって取り戻せるはずがない。

怒って仲直りした後のぎこちない笑顔、熱が出たら心配してくれる優しさ、体調が悪い時に作ってくれるお粥の美味しさ、遠出した時に撮った写真。家族にはそんな何でもないけど胸が温かくなるようなくだらない思い出があるだろう。信頼していた父親に殺された彼はどんな気持ちだったかな。受験なんてそんなものに命を奪われた彼はどんな気持ちだったかな。

絶対忘れないで欲しい。子供はどんなに虐待されたとしても親を覚えてる。世界からこんなに悲しいことを消してくれ。

 

 

 

・窓から射し込む西日

 

木皿泉という脚本家(または作家)がいる。数々のドラマを生んできて、母や私はそのドラマたちを毎週たのしみにしていたし、録画してあるものは今でも見返しています。

野ブタをプロデュース』『セクシーボイスアンドロボ』『すいか』『Q10』『昨夜のカレー、明日のパン』など。一つは耳にしたことのある作品があるのではないでしょうか。

生きていう中で、というのは大袈裟かもしれないけど、自分の生活の中で出会う人がみんなドラマの登場人物のような人だったら私は幸せでたまらないと感じることがあります。木皿泉の描く人間はなかなか画面に映らない端役であっても魅力的な人物です。

 

この先、私はずっと誰かに何かを伝えなければいけないんだ 。私の心の中はわたししか知らないんだから。

 

私を救えるのは、宇宙でわたしだけだから

 

好かれようとか、うまくやろうとか...いいんだよ、そういうの。そういうの、もういいんだよ。オレはもういい。自分ができることだけを精一杯、毎日やっていく。そうやって生きていく。そういうの、情けないか?

 

素敵な言葉ばかり。私は本を読むのが好きなので、好きな本が映像化されたりすることがあります。でも大体映像化されると、思っていたのと違っていたりがっかりすることがあります。木皿泉の作品は映像だからこそ美しいと思えるものばかりです。

射し込む西日の切なさや、湯気を立てている白米。まるで小学校の教室のワックスの匂いを思い出すようなそんな懐かしくも切ない気持ちにさせてくれます。

誰かに観てもらいたいなーと思いつつ、DVD化されていない作品もあるので家に来てもらって観てもらうしかないのかな(笑)

 『昨夜のカレー、明日のパン』は木皿泉が書いた小説として本屋大賞にノミネートもされました。映像だけでなくて、本も素晴らしかったので、ぜひ本を読んでみてください。

 

 

・小さい

 

一年半ほど前からハムスターを飼っています。それはそれは可愛くて、お世話も楽しかったです。

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食いしん坊でちょっと太っててお尻が大きくて歩くとぽよぽよしててね。可愛いよね。

 

そんな彼女ですが、昨日から大変具合が悪いんです。昨日は夜にグッタリしてしまって、もうこのまま目覚めないのかと思って大泣きしてしまいました。でも今日はちょっと元気でした。小屋から出て部屋を歩くことも出来ました。

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今日のぷーちゃんです。かぼちゃも沢山食べてくれました。このまま元気になってくれたらいいのですが。

昨日、ぷーちゃんが死んでしまうと思ったらたくさんのことを思いました。まずはあんなに小さい体で人間と同じくらい私に幸せを運んでくれたこと。食いしん坊でひまわりの種ばっかり食べて怒られてたこと。畳の部屋の隅が好きでいっつもそこに行って毛ずくろいをしてたこと。回し車を変な風に回してたこと。人一倍(ハムスター一倍??)臆病だったこと。全部全部大好きで大切な思い出でした。大好き。

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まだまだ生きようね。呼吸が苦しそうだから、苦しんでいたら悲しいけれど。もうちょっと一緒にいたいなぁ。真っ白でふわふわで優しくて寝るのが大好きなぷーちゃん。私の妹だもんね。大好きだよ。

 

 

・影響

昨日、大学院の授業を初めて拝聴しました。大学院というと難易度が今より上がるので、私の脳は付いていけるのか不安でしたし、教室に入ると人数が思ったよりも少なく、より不安になりました。しかし、講義を聞いていると私の好きな芥川龍之介や、エドガー・アラン・ポーなどの作家が例に挙がり、意外や意外、すんなりと1時間半集中して拝聴することが出来ました。

この講義には准教授に勧められて出席しました。彼女の講義は、哲学や社会学、文学など様々な分野に及びます。私はどの分野も得意ではないですが興味があるので多く受講してきました。

でもこの准教授の授業が苦手とか、理解が出来ないということで准教授自体を嫌っている友人がちらほら見られます。

確かに哲学や文学は興味がないとつまらないかもしれませんね。でもとても役に立つんです!ということを声を大にして言いたいです(笑)

人生の教訓になるような生き方、思想などたくさんの自分とは違う考えに触れることが出来ます。やはり、誰しもが自分の考えを柔軟に変えることを苦手としていると思います。私が常常思うのは、敵を知って自分をよりよく理解出来るのだということです。自分と反対の意見、または賛成できない事柄を敬遠してばかりでは判断のしようがありませんよね。でも敬遠してばかりですよね。彼女の授業の中で知る思想は賛成出来ないものもあれば、納得出来るものもあります。そこから自分の考えを作り上げることが可能になるんです。これはかなりの強みなのではと思っています。

 

さて、昨日拝聴した院の講義で私に一番響いた言葉は「この世に自分に関係の無いものは一つもない」というものでした。例えば明日の天気予報だったり、遠い国で誰かが生まれたことだったり、帰り道の花が咲いたことだったり、どうでもいい、関係ないと思えることも自分に関係するということです。日々を無意味に考えてしまいがちな私には忘れていた感覚でした。明日雨が降って傘を誰かに貸したことによって一生ものの友情が生まれるかもしれない。今日遠い国で生まれた誰かは数年後私と出会う1人なのかもしれない。全ての可能性がないとは言えない。そう思うと、自分に起こった一つ一つ、良かったことも悪かったことも意味があったように思えてなんだか納得出来る気がします。

 

一つ一つを大切に。たまに投げやりになるのもよし。もしかしたらそれが意味のある行為かもしれないから。