・大人
先日、以前のバイト先でお世話になっていた方とご飯に行きました。19歳年齢は離れていますが話していてとても面白い方で、今では上司と部下ではなく、月1で飲みに行く飲み友になっています。海外で暮らしていた時のこと、海外を自転車で旅した体験など私はきっと一生しないであろう経験をたくさんされている方で、色んな気持ちを教えてくれる方です。
当日会うまで、ステーキを食べに行こうという話だったのに、彼に案内されて到着したお店は見るからに高級そうな焼肉屋さん...。何時ものお礼を兼ねてるから会計なんて考えずに食べて!奢りだから!と言われて予約して下さっていたのはコース料理でした。一体幾らするんだか庶民の私には分かりませんでしたが、ご馳走になりました。
食事前に私が、自分の分は払います!と言ったところ「僕も昔、先輩に高級なすき焼きを奢ってもらったことがあってね、その時本当に嬉しかったし、その人の事を今でも尊敬してる。だから今度は貴方が後輩に奢ってあげるんだよ。そうやって人は繋がっていくんだよ。単純だけどね。」とちょっと照れくさそうに笑って話してくれました。
先に述べた経験もそうですが、たまにしてくれるご両親のお話、今の職業に就く前の会社の話、海外で受けた差別のお話...私より19年長く生きてるから、これだけのお話で私が感じ取る以上の色んな気持ちを味わってきたはずです。私が19年後、彼の年齢になった時に、私みたいなちんちくりんにこんなに優しく出来るのかなと思いました。こんな世間知らずで、勉強も出来なくて、友達付き合いも下手で、すぐ独りよがりになる卑屈な奴に、こんなに優しく出来る大人になれるんだろうか。未来がちょっと怖くなりました。
何か手に入れたと思える学生生活でなきゃいけないと焦ってとにかく本だけは読もうと、縋るように活字を追ってきました。最近成長したかな、と思うことがあります。世の中めんどくさくて辛くて理不尽なことが絶え間なくて、いっそ何もかも無くなってしまえば良いのにと思うことが多い。でも、気軽に会えて変な話をして笑ったり、美味しいお酒を飲んだり、馬鹿みたいな体験を馬鹿みたいに話して、じゃあまたね、と次があるのが絶対みたいに別れられる人が居るだけで、もう何もかも許せるんじゃないかと思えるようになりました。何か辛かったり独りを感じたりした時は、その時の感情に飲み込まれがちですが、ふっと客観的に自分を見た時に、もう充分じゃないかと肩の力を抜けるような。まぁいっかと言えれば上出来じゃないかと思えるようになりました。
そう言えば、彼の口癖も「まぁいっか」です(笑)塾の業績が悪化して大変なのに「まぁ、いっかな〜って(笑)」っと笑っています。良くないだろ!って時もありますが。でもそういう心持ちだからこんなに素敵な人なんだと思います。とても尊敬している人です。
私も19年後、誰かに尊敬して貰えるような人になれていたら、やっと大人になれるのかもしれません。
・時代?
人間は考える葦である
という名言はあれど、今の自分は何かを真剣に考えて生きているだろうか。私は即座に、はい、と答えることは出来ない。それは非常にもったいないことだと気づく。
「今の学生たちは、わからないことの答は、検索すればどこかにあると思っていますね。あまり、自分で考えて仮説を立てようとはしない。わからないことは、ネットで検索すれば見つかるはずだと信じているのです。学生に課題を出すと、たしかに一所懸命調べて、集めた情報でなんとか辻褄合わせをしようとする。だけど、それは研究ではありません。(中略)不思議なことがあれば、なにか理由がある。(中略)『どうしてかな?』と不思議に思えば、頭を働かせて想像するでしょう。小さい頃にそういう体験をしていないと、考えない大人になってしまうのではないかという気がします。」
(『文系の壁』著・養老孟司、株式会社PHP研究所、P.47-48より)
以前このブログで紹介した森博嗣の自伝的小説『喜嶋先生の静かな世界』の中で、主人公(森氏本人だと思われる)は3度の食事を忘れる程に研究に没頭していた。主人公が大学生として学んでいた時代ではPCが出始めた頃で、PCでのグラフの描き方などに時間がかかったり、PCの動かし方そのものが研究のようになっていた。
今では、ネットはスマートフォンという形で誰の手の中にも収まるものになり、24時間好きな時に好きなだけ使用することが出来る。それを森博嗣は危惧している。
考えない人間で溢れているのではないか、と。ネットが普通になった今、ネット上には嘘がはびこり本当と区別をつけにくい。嘘を簡単に信じる人も多い。今やPCは輝いていない、TVやラジオと同じありきたりな媒体になってしまった。その媒体に意識を吸い取られ考えふことを止めてしまっていないだろうか。私は止めてしまっている。考える力が弱ってしまっている。
私が感じたことは、時代のせいにするのは卑怯だ、ということだ。ネットが手元にあるからと言って考える力がある人はたくさんいる。結局は自分次第なのだ。ネットがあるから発展したことだらけの世界でその恩恵は無視出来ない。伊坂幸太郎の『モダンタイムス』という小説では、ネットで検索することが大変重要なキーとなる。私たちにはネットが必要だ。でもネットを作り出したのは人間であり、人間の脳はPCよりも賢いはずなのだ。それを無駄にしている人が多い。もちろん私も含めて。それはただの甘えだ。
胸を張りたい。あぁ考えた、と胸を張りたい。頭を使いすぎて糖分が欲しいな、と言いたい。だから今日から少しずつ考えてみる。千里の道も一歩から、なのだから。
・遮光
最近になって日射しが強くなってきた。目が眩むような強い日射しは苦手である。部屋のカーテンは開けたくない。帰宅して部屋に入ると、空気の入れ換えの為にカーテンと窓が開けられていることがある。眩しいし、自分の世界が開かれてしまったようでそわそわする。明るさに抵抗がある私には遮光カーテンはなくてはならない存在だ。
この本の主人公も光を遮っていた。それには理由がある。
『遮光』中村文則
中村文則の作品は、まだ3冊しか読めていない。先日述べたように『土の中の子供』は私にとってかなりの衝撃だったが、この『遮光』という作品も侮れない。
嘘しか言わない青年は、嘘をつくことが普通だった。嘘をつくことに抵抗はなく、嘘が本当の様に口から出る。その時は特に何も考えていないようだ。そして彼は演技が上手かった。時には優しい性格の男性のように、またある時は頭の悪そうな大学生のように。振舞おうと思えばいくらでも演じられて、見破られることがなかった。周りの人間に嘘しかついてこなかったから、周りの人間は彼の本当を知らない。
しかし彼は、あることには嘘がつけなかった。それは恋人・美紀に対してだった。美紀は事故で亡くなった。それでも彼女は生きていると周りに嘘を言い続ける彼。その嘘は虚しいのに、周りの人間は気づかない。だって彼は嘘がとても上手いから。
主人公の青年が耐え切れず吐き出す美紀の死に対してのセリフは、彼が人間なんだと思えた瞬間だった。涙が出た。彼のように自分の行動も信じられなくなったら人は生きていけるのだろうか。今、頭を振ったのは演技か?あくびをしたのは演技か?咳をしたのは演技か?自分の行動まで疑い出してしまったら、きっと私は死んでしまう。狂ってしまう。彼にもその気持ちはあった。自分が自分でなくなる恐怖を彼も感じていた。しかし、傍から見れば彼は異常で、物語の終盤に向けて徐々に崩れていく。最後には...。
作品の後に作者本人による解説が載っている。そこで作者が言っていたように、主人公の彼は、あそこまでいかなければ永遠に救われなかったのだと私も思う。だから苦しい。異常者に見える彼の気持ちを読者である私たちは知っている。知っているから彼のことを異常者だなんて私は思えなかった。
ぜひこの作品を読んでもらいたい。私がおすすめする本はたくさんあるけれど、中村文則の作品はどれも素晴らしい。(何度も言う。まだ3冊しか読んでいない。)
ところで、私は本を選ぶ時にあらすじを読んで決めることが多い。最近手に取る本は芥川賞受賞作が多い。意識はしてないのだけど。芥川龍之介が好きだからかな、と思ったり思わなかったりしている。今読んでいる新書もかなり興味深い。好きな養老孟司の新書だ。ぜひ紹介したい。
・土の中の子供
・きらきらひかる
・ショーシャンクの空に
・何度でもオールライトと歌え
『何度でもオールライトと歌え』後藤正文