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・笑って

 

大好きな木皿泉脚本の『富士ファミリー』というドラマが今年もやっていました。去年から楽しみにしている作品です。

木皿泉の誰もが知っている作品でいうと、『野ブタをプロデュース。』でしょうか。ドラマの脚本をしています。

 

今回の作品では、自分を信じてくれる人がいれば呪いなんて消えてしまう、という言葉が素敵でした。自分は世間に何と言われようとも、信じたいものを信じる!と言っていた強さに、怖気付きました。私はそんな言える強さがあるかな〜。私は弱虫だから。 

ばあちゃん(片桐はいり)がナスミ(小泉今日子)に語りかけるセリフ。「丈夫な身体に生まれ変わったかい。意地悪するやつはいないかい。」なんて大きな愛なんだろうと思います。

愛とか幸せという言葉って馬鹿にされがちですよね。私もしています。私なんかが言うと余計でしょうか。なんとなく会いたいなって思うこととか、面白い体験をしたら一番に話したいと思う人とか、自分の子供が虐められないように幸せに生きて欲しいと思うこととか、それが本当の愛なのかなと思ったりします。

でも、本当なんて言葉は人によって概念が違うから、あくまで私だけの意見です。

 

私の周りにいてくれる人はみんな笑っていますように。私に元気を分けてくれる人が、元気でいてくれますように。私が好きな人たちが傷つきませんように。誰かに優しさを貰えたら、少しでもお返し出来ますように。

今年も。今年こそ。今年から。

 

 

・迷宮

book day

自分が異端の存在であるように感じたことはあるだろうか。私はある。生きている世界からの疎外感があり、理解者なんて1人もいなくて、自分の考えていることが全てから外れている理屈の通らないただの感情論だと気付き、あぁどうしたらいいのか、誰かに受け入れてもらいたいのか1人で居たいのか、独りになることは叶わないのか、ぐるぐる考えたことがあった。

 

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『迷宮』中村文則


中村文則の書く小説は何故こんなにも私を苦しめるんだろうか。主人公の新見の気持ちなんて分かるわけがないし、私から見たら新見は異端だと思えるのに、どうしたって私と似ているのだ。
彼のように精神科に通院するように言われたことはないし、その必要もなかった。自分の中にもう1人の人格を作り出すこともなかったし、親に捨てられたこともない。それなのに、彼の考えや行動に理解がある。同意してしまう。
私はおかしいのだろうか。精神異常者なのだろうか。
このことから分かるのは、この世界に生きている人きっと全てが異常であるということだ。みんな何処か壊れている。壊れているのを隠していたり、必死に修理して何事も無いかのように生きている。側から見れば、精神異常者のような行動も、当の本人にすれば、それを行うことで精神を保っている可能性も大いにあるのだ。私たちは他人のことを何にも理解していない。自分の基準なんて、思っている以上に簡単に壊れる、壊される。

新見と紗奈江との関係は恋人とは言えなかった。しかし、最後は入籍する。新見も付き合いが生まれた時は、愛と思っていなかっただろう。彼は何度も、なんとなく彼女の部屋に向かった。仕事帰り、暇になった時何度も。好き、だなんて全く思ってなさそうに。
ごちゃごちゃ色んな考えがあって、この人の今の考えは本当の気持ちなんだろうかとか、これは本当に愛なのかとか疑うものがたくさんあっても、そんなもの取っ払って、気にしないで、それでもなんとなく一緒にいる。この考えは実はどんな言葉よりも動物的で自分の気持ちに素直な行動なのではないかと感じる。

 

 議論をする際には感情論は否定される。感情なんてものは人によって違うからだ。しかし自分に関することの多くは、自分の気持ちを基準に選択してきただろう。だからたまには、ここぞという時は、自分の気持ちを信じたい。生まれる前からすり込まれたDNAのように、本能とは理屈にも勝るものだと思うから。

 

 

 

 

・大嫌いな祖父のこと

 

父方の祖父が亡くなったのは去年の6月のことでした。その頃私の家と父方の祖父との連絡は途絶え、絶縁に近い状態でした。

最後に祖父母の家に行ったのは何時のことか分からないほどでした。唯一連絡を取っていたのは、長男である父だけでした。

祖母は5年程前から認知症を患い、話すことも出来ず、長い間入院しています。今もです。祖父は祖母の介護を自分1人でやると言い、周りの冷静な声にも耳を傾けず、1人で介護をしていました。

私や姉が小さい頃は、少し短気で、怒ると暴力的なおじいちゃん(十分怖いな)という感じでしたがそれ以上でもそれ以下でもなかったです。しかし20歳も超えた私が知ったことは、父方の祖父母は私の母のことが気に入らず、長い間嫌がらせをしていたということでした。それはそれはもう気の滅入るような陰湿なもので、私は今でも許すことは出来ません。母はそのつらさを私や姉にバレないようにずっと隠していたのです。知りませんでした。

 

そんな祖父の最期は、脳梗塞でした。

1人で介護をしている祖母を車に乗せ、いつも通院する病院に車を走らせている途中で起こったようです。なんとか病院の駐車場に車を停め、車から降り、倒れ、それからあっという間に亡くなりました。車を走らせている時に意識を失っていたらたくさんの人を巻き込んだ大事故になったかもしれません。だから酷い頭痛の中、必死に車を停めようとしたのではないかと検死を担当した医師に父は言われたそうです。車は駐車場の線に対して斜めに停められ、必死さが伝わりました。また、脳梗塞を起こした祖父の脳はレントゲンに写すと半分が真っ白だったそうです。半分が石のように固まってしまっていたそうなのです。よくこの状態で生きられたものだ、相当な激痛だっただろうし、性格が荒かったのもこの脳のせいだろうと医師に言われました。

遺品を整理しに向かった祖父の家には、市販の頭痛薬がたくさん、至る所に置いてありました。痛かったのでしょうね。

 

私はあなたの事をずっと恨んでいました。私の母を苦しめ父を苦しめてきたあなたを。でも何も知らなかった。恨むにはあなたの人間性を知らな過ぎたと今は思います。本当は大学に通いたかったけれど家にお金が無いからと職についたこと。それでも勉強したいと、沢山の文学作品を読み漁り、英語のテキストを何冊もこなしたこと。何も知らなかった。知ろうともしませんでした。ごめんなさい。今でも両親を苦しめた存在として許すことは出来ませんが、あなたの苦しみも知りました。どうか安らかに眠ってくれていれば良いです。

 

 

・光る箱、速い箱

電車に揺られながら頭では色んなことを考える。耳からはoasisのCast No Shadowが流れている。コーラスのハーモニーが美しい。

 

夕方5時を過ぎた千葉方面へ向かう電車には帰宅するサラリーマンやOLの姿が多い。眠そうにうつらうつらしながら英単語帳を開いている高校生らしき学生の姿も見られる。多くの人は家に帰るのだ。1日疲れたなと思いながら。帰ったら何をしようか考えながら。


電車の窓から見える景色はもう夕闇に包まれている。冬に近づくにつれ日が暮れるのは早くなる。たくさん光って見えるのはマンションの灯りだったり、誰かの家から漏れる灯りだ。誰かを待っている人も居るし、誰かの待つ家に帰る人がいる。
隣に座る中年男性の手帳型スマホカバーの内側には、男性の娘と見られる女の子の写真が貼ってある。彼には守りたいものがあるのだろう。
向かいに座る大学生くらいの男性はイヤフォンをして、スマホを見ながら笑っている。面白いと思える動画、またはメールのやり取りがあるのだろう。
私の前に立っている若い女性の左手薬指には指輪がはめてある。その爪が短く切り揃えられている指で家に帰ったら包丁を握り、誰かの為に料理をするのだろうか。

 

 

耳から流れてくる曲がChampagne Supernovaになった。イントロの水流の音を聴くと、穏やかな気持ちになる。
終点に向かうにつれて、人はどんどん減って行く。目指す場所へと向かっていく人は幸せそうだったり疲れた顔だったり、咳をしていたり、眠そうだったりする。でも何処か向かう場所が決まっているというのは幸せなことだと思ったりする。電車内を照らす蛍光灯は眩しいくらい乗客の顔を照らす。きっと外からこの電車を見たら、夜の暗闇に映えて、眩しい光の箱に見えるんじゃないだろうか。

 

さぁ、最寄り駅に着いた。私は先に降りるよ。次のアルバムの1曲目が始まったところだ。

 

・歌、音楽

 

小学生の頃に文鳥を飼っていました。オスでした。メスかと思って育てていたら、求愛の歌を歌うようになったので、オスだと分かりました。白文鳥だと思って雛の頃から育てていたけれど、どうやら桜文鳥とミックスだったようでおじゃる丸の眉毛みたいに黒い羽毛がある子でした。

 

先に述べたように文鳥は、求愛のために自分で歌を作ります。卵から孵り、誰に教えられたわけでもないのに、遺伝子を遺すためにメスを探すし、メスを引き寄せるために歌を作るのです。

生物のゴールは、遺伝子を遺すことだと私は思います。だからその為に生物は力を尽くしますよね。カマキリのオスは、産卵を控えたメスの餌になって生を終えるし、苺は受粉するために蜜蜂を誘き寄せます。異性と会うため工夫を凝らします。鳥はダンスをしたり鳴き声がいかに勇ましいかなど沢山求愛の方法がありますが、文鳥は歌を選びました。

 

歌とは、音楽とは、生物が遺伝子レベルで反応してしまう心地よさとか魅力があるものなんだと最近思いました。上手く言葉に出来ませんでしたが。(笑)

なぜだかこのメロディに惹かれてしまう、この曲を聴くとなぜだか泣きたくなる、そんな風に歌は人を動かしてしまうものなのではないかと思ったんです。だから歌が好き音楽が好きという人はある意味とても生物らしいし、そういう人が集まっている部活やサークルやライブ会場なんかは、必然的に吸い寄せられてしまった場所のようにも思えます。どんな場所よりも、人間が生物らしく居られる場所のように感じました。

生物らしく何も飾らずに居られる場所というのは実はとても少ないです。自宅とか、もっと狭ければ自分の部屋のベッドとかの人も居るんじゃないでしょうか。だからそういう場所って大事にしたいし、そこで出会った人とは分かり合えることがたくさんあるんじゃないかなと思います。

 

余談ですが、

飼っていた文鳥が死んでしまったのは6月9日でした。語呂合わせでロック(Rock)の日と覚えています。

 

 

・夜の次は朝

“違う違う。本当の自分はこんなんじゃない!”という行動を取ってしまったり、言葉を言ってしまった経験はありますか?

私はあります。大抵そういう時は、後悔するのに、素直になれなくて謝ったり訂正することは出来ません。

又吉直樹『夜を乗り越える』を読んでいます。又吉さんは小学生時代に、自分を演じているという意識があったそうです。クラスメイトに本当の自分とは違うキャラクター設定をされてしまっているけれど、言い出せない、訂正出来ないという葛藤を抱えていたそうです。

 

本当は笑いたくないのに笑ったり、悲しいのに笑ったり、やりたくもないのにやったり、違うのに認めなきゃいけなかったり。そういう経験をした人は多いと思うし、私もあります。又吉さんの場合、担任の先生がそれに気付いてくれたことで、救われたそうです。

私もそうなりたいと思いました。担任の先生の様になりたい。現在私は21歳で、年齢的には大人になりました。もし小学生の男の子が無理をしているなら、苦しんでいるのなら、それに気付いてあげられる人間、大人になりたいです。

また、又吉さんは、子供の自分に対して大人の人が対等に向き合ってくれたということに感動したとも書いていました。3月のライオンという漫画にも似たような場面があります。小学生の主人公・零に対して、幸田さんは対等に向き合ってくれる人でした。そして零も、又吉さんの様に感動していました。伊坂幸太郎『ガソリン生活』では、小学生の亨は大人よりも大人な考え方をする子供という様に描かれていました。私たちが思っている以上に、子供は考えていて、私たち大人は子供以上に残酷なのではないかと感じてしまいました。子供だからといって侮ってはいけないし、対等に向き合う。また、苦しんでいる人は子供に限らず、気付いて助けてあげられる人になりたい、そう思いました。

 

歳を重ねるごとに、幼い頃の記憶は消され忘れていきます。それでも自分の考えを覆したものや出来事、考え方などは覚えているでしょう。また、忘れたと思ったことも、ワックスの匂いを嗅ぐと小学校の教室を思い出すように、ふとしたきっかけで思い出すこともありますね。今まで自分を紡いできた何かを大切に、人に優しくありたいと改めて思いました。

 

 

・the dog days are over

 

戦車の出す火花が美しく見えたことがある。テレビ画面に映った戦車だった。遠い国で人を殺している。まるで線香花火の火花の様に見えてしまった。自分とは関係の無い場所で、身近なものではないからそう感じたんだろう。そう感じることが出来たんだろう。

綺麗だなと思った直後、なんて最低な事を...と思った。人を殺している火花が美しいだなんて無神経だし、命を愚弄している。

刀や銃も人を殺す。でも美術館に行けば、歴史のある日本刀は美しいものとして飾られるし、銃の愛好家だって世の中にはたくさん居る。銃のプリントがされた洋服なども街で見かける。人を傷つける、殺す道具であっても、片や美しいもの、お洒落なものとして扱われているのは、どこか不思議に感じる。

不謹慎とは思わない。むしろ人間は強い、かっこいいと思う。だって自分のことを殺す道具がプリントされた服や小物をファッションとして取り入れている。こんな道具、怖くもなんともないという主張に見えなくもない。校則に超厳しい体育教師の目の前を金髪で通り過ぎるようなそんな感じがする。変な例えだな。(笑)