・旅行〜広島編〜

土日を利用して久々に社会人の姉も参加して家族で広島に行ってきました。初めての広島、とても有意義でした。

 

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原爆ドームです。建築物として、とても美しい設計だと原爆が落とされる前の写真から見受けられましたが、現在でも柱などかは当時の美しさを見ることが出来ます。

広島平和記念資料館にも初めて行きました。火傷を負った人々の写真や、人型の影が残る階段、原爆の影響で亡くなった人の爪などを見ても、現実味が感じられませんでした。こんな事が起こり得るのか。こんなむごい事が現実で起こったのか。信じ難いです。

 

平和記念公園に行く前には、広島にイタリア料理を広めたお店であるリストランテマリオに行きました。

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食べ物の写真を撮るのが上手い気がします。

 

そこから厳島神社にも行きました。1100年代に造られたという厳島神社。もちろん改修はされていますが、この様な荘厳な神社を設計することのセンスが素晴らしい。鏡が祀られていたところも私の気分を上げました。やはり神と鏡は切っても切れない関係ですね。

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鹿もたくさんいて可愛かったです。

厳島の家々は瓦屋根でしたが、鬼瓦が使用されているものが多く、とても印象的でした。

 

 

2日目は広島から島根まで車で足を伸ばし、出雲大社に行きました。古事記日本書紀の授業を受けてからというもの、一度訪れたかった場所だったので幸せでした。因幡の白兎のモチーフがたくさんあり、気分が上がりました。

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騙した鰐たちに皮を剥がされた白兎は、ヤガミ姫に求婚しに向かっていた大国主の兄たちに、海水をつければ治ると言われ実行してみたところ、傷に染みて更に傷は悪化してしまいます。そこへ兄たちの荷物持ちとしてやってきた大国主がやって来ます。彼は白兎に的確な指示をして、それを実行したところ傷は綺麗に治ったのです。そうして因幡の白兎はヤガミ姫が、兄たちにではなく大国主を選ぶと予言し、その通りになります。これが因幡の白兎の概略です。

だから兎たちは、神に向かって祈りを捧げているのですね。可愛い。

 

1泊2日という短い時間でタイトスケジュールでしたが、とても有意義に楽しめました。気分転換にもなりました。

余談ですが、もみじ饅頭はクリームチーズ味が美味しかったです。行く機会があれば是非。

 

 

・真意

 

天野貴元さんというアマチュア棋士の方をご存知でしょうか。先程、知人に勧められた彼のドキュメンタリー映像を観ました。天野さんは癌により一昨年30歳で亡くなりました。余命を宣告され、亡くなるまでの1年以上の期間をドキュメンタリーとして映像にしていました。

倒れるまで、細い身体で無理をしながら全力で将棋を指している彼の姿は、とても強かったです。月並みな感想ですが、生きるとは命を燃やすとはああいうことなのだと感じました。

 

さて私がこの映像で気になったのは、密着していたディレクターが天野さんに問い掛けた質問でした。癌が進行し、将棋を指す体力すらなく、ギリギリの状態の天野さんは、幾つものアマチュア将棋大会に挑戦するものの優勝することは出来ていませんでした。そんな彼にディレクターが「天野さんは将棋で負けていますよね。どうして…」と話し掛けますが、ここまで話した時点で、天野さんは対局に負けた悔しさのあまり泣き始めました。悔しい、悔しいと頭を抱えて泣いていました。ディレクターは泣かせる、傷付けるつもりで言ったのではないんだなと私は感じましたが、動画のコメント欄では「辛辣な質問」「どうしてこんなこと言ったんだ」等の意見が多く見られました。天野さんが泣いた時、ディレクターの「好きとか嫌いじゃ」という小さい声が聞こえました。つまり、ディレクターが言いたかったことはこうだと思います。「体調も最悪の状態であるし、負ける悔しさを感じることの方が多い。それでも尚、将棋を指し続けるのは何故なのでしょうか。単に好き嫌いだけではここまで続けられませんよね。」これがディレクターの真意だったのではないでしょうか。しかしそれはあの映像を観た多くの人々に伝わらなかったのだと私は感じました。確かに「言い方は失礼かもしれませんが」等の枕詞を添えた方が分かりやすかったかもしれません。言葉の真意を伝えるということは難しいなと思いました。

 

動物も含め生死についての記録を見たり読むことはあまりしたくありません。必ず泣いてしまうし、そこから、私も頑張らなきゃと思うことが嫌なのです。本当だったら日々生きていることを真面目に捉えて、誰かや何かの死を意識しなくとも自分の生を顧みるべきだからです。まぁいきなり「今日も生きている。これ以上幸せなことはない。」と言い始めたら怖いけれど。そんな私でも、あのドキュメンタリーは観て良かったと思いました。時間があれば是非。

 

 

・話す意味、書く意味

音が意味を持って、誰かに伝わるというのは不思議で、奇跡のようなことだと思いませんか。"あ"という音と"め"という音が繋がって"雨"という単語になり意味を持ちます。イントネーションが加われば"飴"にもなります。これは同じ言語を理解出来る人にだけ伝わることですが、一つ一つの小さな音が繋がって意味を持つということに感動を覚えます。ホモ・サピエンスの時代の原人たちも、きっと想いを伝えたいから、音を出したんでしょう。あー、とか、うー、とか。いつしかそれが意味を持った。そこは危険だ、とか、狩りに行こう、とか。そうやって人は生き延びて、今の形の言葉が生まれたんだと思います。考えれば考えるほど不思議なことです。

 

小さな音たちは繋がって意味を持って、文章にもなります。そしてその文章は、人の気持ちを動かすことだって出来る。

だから私は言葉が、特に日本語が好きです。誰かを変えられる、助けられる、楽しく出来ると思うから。裏を読み取るとか高度な技を求める言葉もたまにあるけれど、基本的に言葉は直球です。そこが好き。気持ちをぴったり表現出来る言葉に出会った時は、飛び跳ねたいほど嬉しいものです。

"優柔不断な気持ちはマッキーで塗り潰す"とか、"両手に愛とナイフ"とか。"進化する前に戻って何もかもに感動しよう"とか。大好きな言葉たちです。私に勇気も、切なさもくれる私の味方の言葉です。

 

私も自分の言葉で、誰かを笑わせたいな、救いたいなと思います。

 

 

・すべてがFになる

好きな作家の1人である森博嗣のデビュー作『すべてがFになる』を読了しました。最近ドラマ化やアニメ化もされて、ご存知の方も多いと思います。

 

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すべてがFになる森博嗣

 

まず驚いたことは、20年ほど前に書かれた作品であるにも関わらずコンピューターシステムの話が全く古臭いものではないということでした。何も違和感がないのです。ミステリー作品において現在よくあるトリックとして、携帯電話やスマートフォンを使うトリックが挙げられますが、この作品が出来た頃はそのようなものは使えないトリックなのです。しかし全然古臭くない。まるで森博嗣は20年先の未来を予言していたのかという気分になりました。

 

話の内容としては、理系作家の名にふさわしいトリックで、素晴らしかったです。私が抱く森博嗣の作品のイメージは、薄いグレーです。理由は、無機質で完璧、クリーン、すべての物事が論理だっている、という理由からです。少し人間離れている感じ。ロボットに近いかもしれません。今回の作品も薄いグレーのイメージでした。ロボットのように、感情があまり問題にならない作品です。

 

読んでいて、言葉も胸に残るかっこいいものが多かったです。

「だけど、だいたい自然なんて見せかけなんだからね。コンピュータで作られたものは必ず受け入れられるよ。それは、まやかしだけど……、本物なんて、そもそもないことに気づくべきなんだ、人間は……。」とか「自分の人生を他人に干渉してもらいたい、それが、愛されたい、という言葉の意味ではありませんか?(中略)自分の意志で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意志ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」などです。感情論に偏りがちな私にも納得出来るものでした。とても論理的という印象を受ける言葉だと感じます。まるで数学の問題を整理しながら解いているようなそんな気分になります。養老孟司森博嗣の対談を読んだことがありますが、その時に感じた森博嗣に対するイメージがそのまま反映されているのうな作品でした。

 

文系でも理系でも関係なしに読んでもらいたいミステリー作品でした!

 

 

・成長期

 

信じられないとか意外と言われることが多いけれど、私は少林寺拳法初段を持っているし、小学校時代6年間運動会でリレーの選手に選ばれていたし、暮らしている市の小学校が集まる総合体育祭ではリレーの選手、100メートル走の学校代表選手だった。学級委員も毎年やっていた。中高一貫校に進学した後は、中1から高3まで学級委員に選ばれていた。ギター部の部長もしていた。

 

なんだか今の根暗で、集団行動が苦手で、ビビリな性格とは反対の生活をしていたように思う。もちろん当時も、何をするにも多少の怖気はあったし、中高の頃はそれが顕著だった。幼い頃ほど人生経験が少ないから誰しも無鉄砲だとは思うが。

今の私を見たら、過去の私はどう思うのだろうと感じる時もあるし、過去の私のことを話せば、今と全く違う輝いた過去に現在周りにいる人は驚くだろう。

でも、私の過去は栄光だったのかな?と思う。よく「過去の栄光」という言葉を耳にする。華々しい過去に縋ってしまう人がこの世にはたくさん居る。今の私の人生のピークは、あの頃だろう。足が速くて、学級委員も部長もしてたあの頃。でも、戻りたいとも縋りたいとも思わない。あの頃も、今よりずっとずっと辛いことがたくさんあったからだ。小学2年生の頃は、同じ女の子のグループで仲間はずれにされたり、パシリにされたりして虐められていたし、クラスが変わった小学3年、4年生でも陰で悪口を言われて孤立していた。担任の先生も気付いていたけど助けてくれなかった。まぁ先生なんてそんなもんだ。5年生の頃もクラスの仲が悪くて、担任の先生がストレスが原因で入院するくらいだった。虐められるのを恐れるように進学した中学校では1年生の頃、幽霊部員をしてた部活の同じ学年の子たちにたくさん悪口を言われたし(幽霊部員してた自分も相当悪い)、中3から高3まではギター部の部員をまとめるのも難しかった。

思い返すと、虐められてばかりだった。そんな中で親友を2人も見つけられたことは幸運だった。そしてやっぱり小学校時代からの友人はいない(笑)友人とも言って貰いたくないし、言わない。これは当時1人で戦った自分へのせめてもの拍手だから。

こんな過去だから、別に戻りたくもない。どんな人も、やっぱり今が過去より美しいんだと感じる。過去を重ねて、精神も見た目も絶対変わってる。陰口を叩いていたことのダサさとか、精神が子どもだったことに気づいているだろう。(たまに気づいていない人がいるから注意だけれど。)人生のピークを過去に設定するにはまだ早いし、過去より今、今よりも未来の自分があなたが、絶対いつよりも美しいし強いはずだ。

 

と思ってる。1人で。

今日は渋幕の入試だね。実力を出し切れよ!

 

 

・母方の祖父のこと

今日、母方の祖父が入院した。
私と干支が同じ、5回り違うので60歳差、祖父は今、81歳だ。
祖父は以前、前立腺癌を患って入院、手術をしたことがあるし、肺の手術を受けたこともある。そこから健康には気を遣っていた。タバコとお酒はやめて、毎日散歩に出かけて健康に過ごそうと努めていた。


しかし、祖父を変えてしまった出来事がある。叔父の死である。


叔父は、母の兄、つまり祖父の息子にあたる。彼が一昨年肺癌で入院してから、あっという間に亡くなってしまった。祖父は普段無口だし、感情をあまり表に出さないけれど、叔父のお葬式では何度か目を擦っていた。息子が亡くなる経験はしたことがないから、祖父の気持ちを理解することは正確には出来ないけれど、こんなにも残酷で辛い経験はないだろう。叔父が亡くなってからというもの、祖父は毎日お酒を飲むようになったし、節制もしなくなった。母曰く、もう生きることがどうでもよくなってしまったみたい、らしい。生きることに投げやり、もう死にたいということだろうか。

 

 

祖父は第二次世界大戦時、朝鮮半島に居た。疎開をしたものの、食べ物もなく、捨てられた食べ物をどんなに腐っていても口にしたらしい。日本に帰る時、船に乗っていたら野生のイルカが船と並行して飛び跳ねていた、と語っていた。祖父の口から戦争のことを聞いたのは、これが最初で最後だったように思う。
戦争から帰った祖父は、中学校に進み、県内で一番の進学校に入る。そして大学生になり、建築科の技術を活かし、建築関係の仕事をしていた。祖父の描く絵はとても緻密で正確に建物を捉えたものだったし、とても上手かった。この頃は全然絵を描かなかったけれど。

 

 

必死に紡いできた命はいつか、もう要らないと思う日が来るのだろうか。祖父の気持ちも分からなくない。でも残される祖母は。父親も兄も亡くなることになる母は。祖父のことが好きな孫たちは。何を思えば良い?
私はまた祖父と一緒に鍋を囲みたいし、子供の頃みたいに公園にも映画にも行きたい。祖父の描いた絵をもう一度見たい。トランプもしたい。私の好きな人がどんな人か教えたいし、いつか結婚式にも呼びたい。母がダイエットすると言いながらアイスを食べてることも、姉が最近肌の乾燥に悩んでることも、父が通販で電車の模型ばかり買うことも伝えたい。


まだいかないでよ。永遠じゃなことは分かってるけど、それでもやっぱり今じゃないはずなんだ。回復して、嘘みたいに何でもなかったみたいに、また笑えることを願ってるよ。

 

 

・迷宮

自分が異端の存在であるように感じたことはあるだろうか。私はある。生きている世界からの疎外感があり、理解者なんて1人もいなくて、自分の考えていることが全てから外れている理屈の通らないただの感情論だと気付き、あぁどうしたらいいのか、誰かに受け入れてもらいたいのか1人で居たいのか、独りになることは叶わないのか、ぐるぐる考えたことがあった。

 

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『迷宮』中村文則


中村文則の書く小説は何故こんなにも私を苦しめるんだろうか。主人公の新見の気持ちなんて分かるわけがないし、私から見たら新見は異端だと思えるのに、どうしたって私と似ているのだ。
彼のように精神科に通院するように言われたことはないし、その必要もなかった。自分の中にもう1人の人格を作り出すこともなかったし、親に捨てられたこともない。それなのに、彼の考えや行動に理解がある。同意してしまう。
私はおかしいのだろうか。精神異常者なのだろうか。
このことから分かるのは、この世界に生きている人きっと全てが異常であるということだ。みんな何処か壊れている。壊れているのを隠していたり、必死に修理して何事も無いかのように生きている。側から見れば、精神異常者のような行動も、当の本人にすれば、それを行うことで精神を保っている可能性も大いにあるのだ。私たちは他人のことを何にも理解していない。自分の基準なんて、思っている以上に簡単に壊れる、壊される。

新見と紗奈江との関係は恋人とは言えなかった。しかし、最後は入籍する。新見も付き合いが生まれた時は、愛と思っていなかっただろう。彼は何度も、なんとなく彼女の部屋に向かった。仕事帰り、暇になった時何度も。好き、だなんて全く思ってなさそうに。
ごちゃごちゃ色んな考えがあって、この人の今の考えは本当の気持ちなんだろうかとか、これは本当に愛なのかとか疑うものがたくさんあっても、そんなもの取っ払って、気にしないで、それでもなんとなく一緒にいる。この考えは実はどんな言葉よりも動物的で自分の気持ちに素直な行動なのではないかと感じる。

 

 議論をする際には感情論は否定される。感情なんてものは人によって違うからだ。しかし自分に関することの多くは、自分の気持ちを基準に選択してきただろう。だからたまには、ここぞという時は、自分の気持ちを信じたい。生まれる前からすり込まれたDNAのように、本能とは理屈にも勝るものだと思うから。