・時代?

人間は考える葦である

という名言はあれど、今の自分は何かを真剣に考えて生きているだろうか。私は即座に、はい、と答えることは出来ない。それは非常にもったいないことだと気づく。

森博嗣養老孟司との対談の中で、こんなことを言っていた。

「今の学生たちは、わからないことの答は、検索すればどこかにあると思っていますね。あまり、自分で考えて仮説を立てようとはしない。わからないことは、ネットで検索すれば見つかるはずだと信じているのです。学生に課題を出すと、たしかに一所懸命調べて、集めた情報でなんとか辻褄合わせをしようとする。だけど、それは研究ではありません。(中略)不思議なことがあれば、なにか理由がある。(中略)『どうしてかな?』と不思議に思えば、頭を働かせて想像するでしょう。小さい頃にそういう体験をしていないと、考えない大人になってしまうのではないかという気がします。」

(『文系の壁』著・養老孟司、株式会社PHP研究所、P.47-48より)

以前このブログで紹介した森博嗣の自伝的小説『喜嶋先生の静かな世界』の中で、主人公(森氏本人だと思われる)は3度の食事を忘れる程に研究に没頭していた。主人公が大学生として学んでいた時代ではPCが出始めた頃で、PCでのグラフの描き方などに時間がかかったり、PCの動かし方そのものが研究のようになっていた。

今では、ネットはスマートフォンという形で誰の手の中にも収まるものになり、24時間好きな時に好きなだけ使用することが出来る。それを森博嗣は危惧している。

考えない人間で溢れているのではないか、と。ネットが普通になった今、ネット上には嘘がはびこり本当と区別をつけにくい。嘘を簡単に信じる人も多い。今やPCは輝いていない、TVやラジオと同じありきたりな媒体になってしまった。その媒体に意識を吸い取られ考えふことを止めてしまっていないだろうか。私は止めてしまっている。考える力が弱ってしまっている。

 

私が感じたことは、時代のせいにするのは卑怯だ、ということだ。ネットが手元にあるからと言って考える力がある人はたくさんいる。結局は自分次第なのだ。ネットがあるから発展したことだらけの世界でその恩恵は無視出来ない。伊坂幸太郎の『モダンタイムス』という小説では、ネットで検索することが大変重要なキーとなる。私たちにはネットが必要だ。でもネットを作り出したのは人間であり、人間の脳はPCよりも賢いはずなのだ。それを無駄にしている人が多い。もちろん私も含めて。それはただの甘えだ。

 

胸を張りたい。あぁ考えた、と胸を張りたい。頭を使いすぎて糖分が欲しいな、と言いたい。だから今日から少しずつ考えてみる。千里の道も一歩から、なのだから。