・不幸になりたがる人々

4人に1人が本気で死にたいと思ったことがあるらしい。人によって本気の度合いはもちろん違うだろう。口癖のように死にたいと口にする人もいるだろうし、死のうと思ってナイフを手にした人もいるだろう。
電車に飛びこんだり、窓から身を投げたりする中学生がいる度にニュースになる。話題になる。誰かが止められなかったんじゃないかと、さも自分が近くにいる存在だったら止められる自信があるとも言いたげにコメンテーターは悲しい顔をして話す。

 

 

どう思うんだろう。

 

 

自分の気持ちなんて自分以外が完璧に理解出来るはずないのに、君の気持ち分かるよという顔で赤の他人が語り出す。腹が立たないんだろうか。その悲しそうな顔はなんだよと言いたくならないんだろうか。CMがあければ、すぐに遠い国の有名な女優の離婚の話やスケートボードが出来る犬の話を楽しげに大笑いしながら話すだろ。腹が立たないんだろうか。死んだ自分のことなんか悲しいフリでしかない。自分が死にたいほど悩んだことや死ぬほど味わっていた辛さも自分の外に出てしまえば石ころより軽いものだったんだ。人間は残酷。その残酷さに嫌気がさしたんだろうか。だから死んだんだろうか。

死なないでなんて言えないし、死ぬことを止めるつもりもない。私も残酷な人間の一人で、人が死んだというニュースが流れても、好きな人と夜ご飯を食べに行くことの方が楽しみで重要だし、明日はバイトが無いことに幸せを感じるし、相変わらずアジカンはかっこいいと思うし、アイスクリームが食べたいなと思っている。言いたい事はあまりないけど、それでも、後悔だけはしない方が良いよと思う。好きな人に好きだって言うこと、謝りたかった人にちゃんと謝ること、一番優しくしてくれた人に御礼を言うこと、借りてた本を図書館に返すこと、金木犀の香りを知らない人と金木犀を探す散歩をすること。何かないかな。死ぬ前に。

隣の国では、よく金の問題で追い詰められた政治家や会社の社長が自殺する。多分牢屋に入れられるより、周りの人間に非難されるより死を選ぶんだろうな。でも彼らは自業自得だろう。犯罪を犯したのだから何らかの形で罰せられるのが当然だ。でもだからって死に逃げるのはどうだろうと私は思うよ。あたかも真実を追求していた周りの人が殺したような構図になってしまうし、死ねば何もかも許されると思っているのが許せない。死んだって許されない事はたくさんある。
精神的な困窮で自殺しようとする人に言いたいことは、あなたは悪いことをしたのかなということ。いじめられて死にたくなった人は悪いことをしたのかな。何も悪く無いんじゃないの。じゃあなんで死ぬの。相手が死ぬべき、後悔すべきなんじゃないの。
何か悪いことをしてしまって死のうとしている人は、死ねば許されると思ってるのかな。舐めないで欲しいな。死ねば許されるなんてことはこの世に無いんだよ。その汚い精神引きずって死にたくなるくらい苦しんで生きるのが贖罪だろうと思うよ。

 

 

全部私が思っていることだから気にしないで。

・従順な気持ち

 

小学6年生の男の子が父親に殺された。理由は受験勉強をしなかったから、だそうだ。

 

私は学習塾の受付、事務のアルバイトをしていたことがあるから小学生の受験については詳しい方だと思う。年々激化していることも、親が子供に実力以上の期待をしてしまっているところも目にしたし、外で遊びたい気持ちをグッと我慢して机に向かっている小学生も見てきた。小学生の彼ら自身が明確に、ここに行きたい、この学校に通って勉強したいという意志があるなら我慢も必要で、合格に向けての茨の道を進む覚悟を持てと言うと思うし、遊んでいたら怒るだろうな。ライバルは今この時も勉強してるんだぞって言うかもしれない。親が今この時間も働いたお金で君はここに居るのだから勉強して恩返しするのが筋だろうと言うと思う。

でも残念ながら、中学受験とは、親が受験させることの方が多い。だから結果的に勉強したくないし、遊びたいのに勉強しなきゃいけない、楽しくないのに机に向かわなきゃいけないという状況が出来上がる。

勉強したくないという生徒をたくさん見てきた。お気に入りの先生が辞めたから僕も辞める、辞めてずっとやりたかったバスケットボールをやると塾を辞めていった生徒もいる。先生が辞めたくらいで受験止めるの?!と言う人もいるかもしれないけど、それがその子の一番やりたい事で人生の選択なんだ。それくらいのスタンスで良いんだよ、中学受験は。本当はね。

だって中学受験に落ちたって公立の中学校があって、そこで勉強してトップクラスの高校に進学、大学に進学することなんて余裕で出来る。中学受験に失敗したくらいで人生をやめる必要なんて無いんだ。また、人生をやめさせる必要だって無い。絶対に無い。

 

亡くなった男の子の将来はどんな可能性があっただろうか。嘘臭いかもしれないけど、それこそ無限大だった。中学受験にもしかしたら合格してたし、中学生から始めたバスケットボールで全国優勝、高校では全国模試1位になる、ブラックジャックに心打たれ医師を目指す...なんて彼のことを何も知りもしないけど、そんなこともあったかもしれない。あったかもしれない未来だ。

 

江戸時代から親殺しは極刑に処された。でも子殺しは極刑でなくて、生きて帰れる。現代でも確かそう。親殺しの方が罪が重い。子供がうさぎのケージに閉じ込められてご飯を与えられずに衰弱死したとしても9年塀の中に居れば外に出られる。そんな世界だ。あくまで私の意見なんだけれど、親よりも子供の残された未来の方が長い。だから子供の命が奪われることの方がずっとずっと残忍なことだと思う。残された未来の可能性は、9年なんかじゃ取り戻せないもっともっと大切なものだったはずだ。いや一生経ったって取り戻せるはずがない。

怒って仲直りした後のぎこちない笑顔、熱が出たら心配してくれる優しさ、体調が悪い時に作ってくれるお粥の美味しさ、遠出した時に撮った写真。家族にはそんな何でもないけど胸が温かくなるようなくだらない思い出があるだろう。信頼していた父親に殺された彼はどんな気持ちだったかな。受験なんてそんなものに命を奪われた彼はどんな気持ちだったかな。

絶対忘れないで欲しい。子供はどんなに虐待されたとしても親を覚えてる。世界からこんなに悲しいことを消してくれ。

 

 

 

・窓から射し込む西日

 

木皿泉という脚本家(または作家)がいる。数々のドラマを生んできて、母や私はそのドラマたちを毎週たのしみにしていたし、録画してあるものは今でも見返しています。

野ブタをプロデュース』『セクシーボイスアンドロボ』『すいか』『Q10』『昨夜のカレー、明日のパン』など。一つは耳にしたことのある作品があるのではないでしょうか。

生きていう中で、というのは大袈裟かもしれないけど、自分の生活の中で出会う人がみんなドラマの登場人物のような人だったら私は幸せでたまらないと感じることがあります。木皿泉の描く人間はなかなか画面に映らない端役であっても魅力的な人物です。

 

この先、私はずっと誰かに何かを伝えなければいけないんだ 。私の心の中はわたししか知らないんだから。

 

私を救えるのは、宇宙でわたしだけだから

 

好かれようとか、うまくやろうとか...いいんだよ、そういうの。そういうの、もういいんだよ。オレはもういい。自分ができることだけを精一杯、毎日やっていく。そうやって生きていく。そういうの、情けないか?

 

素敵な言葉ばかり。私は本を読むのが好きなので、好きな本が映像化されたりすることがあります。でも大体映像化されると、思っていたのと違っていたりがっかりすることがあります。木皿泉の作品は映像だからこそ美しいと思えるものばかりです。

射し込む西日の切なさや、湯気を立てている白米。まるで小学校の教室のワックスの匂いを思い出すようなそんな懐かしくも切ない気持ちにさせてくれます。

誰かに観てもらいたいなーと思いつつ、DVD化されていない作品もあるので家に来てもらって観てもらうしかないのかな(笑)

 『昨夜のカレー、明日のパン』は木皿泉が書いた小説として本屋大賞にノミネートもされました。映像だけでなくて、本も素晴らしかったので、ぜひ本を読んでみてください。

 

 

・小さい

 

一年半ほど前からハムスターを飼っています。それはそれは可愛くて、お世話も楽しかったです。

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食いしん坊でちょっと太っててお尻が大きくて歩くとぽよぽよしててね。可愛いよね。

 

そんな彼女ですが、昨日から大変具合が悪いんです。昨日は夜にグッタリしてしまって、もうこのまま目覚めないのかと思って大泣きしてしまいました。でも今日はちょっと元気でした。小屋から出て部屋を歩くことも出来ました。

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今日のぷーちゃんです。かぼちゃも沢山食べてくれました。このまま元気になってくれたらいいのですが。

昨日、ぷーちゃんが死んでしまうと思ったらたくさんのことを思いました。まずはあんなに小さい体で人間と同じくらい私に幸せを運んでくれたこと。食いしん坊でひまわりの種ばっかり食べて怒られてたこと。畳の部屋の隅が好きでいっつもそこに行って毛ずくろいをしてたこと。回し車を変な風に回してたこと。人一倍(ハムスター一倍??)臆病だったこと。全部全部大好きで大切な思い出でした。大好き。

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まだまだ生きようね。呼吸が苦しそうだから、苦しんでいたら悲しいけれど。もうちょっと一緒にいたいなぁ。真っ白でふわふわで優しくて寝るのが大好きなぷーちゃん。私の妹だもんね。大好きだよ。

 

 

・影響

昨日、大学院の授業を初めて拝聴しました。大学院というと難易度が今より上がるので、私の脳は付いていけるのか不安でしたし、教室に入ると人数が思ったよりも少なく、より不安になりました。しかし、講義を聞いていると私の好きな芥川龍之介や、エドガー・アラン・ポーなどの作家が例に挙がり、意外や意外、すんなりと1時間半集中して拝聴することが出来ました。

この講義には准教授に勧められて出席しました。彼女の講義は、哲学や社会学、文学など様々な分野に及びます。私はどの分野も得意ではないですが興味があるので多く受講してきました。

でもこの准教授の授業が苦手とか、理解が出来ないということで准教授自体を嫌っている友人がちらほら見られます。

確かに哲学や文学は興味がないとつまらないかもしれませんね。でもとても役に立つんです!ということを声を大にして言いたいです(笑)

人生の教訓になるような生き方、思想などたくさんの自分とは違う考えに触れることが出来ます。やはり、誰しもが自分の考えを柔軟に変えることを苦手としていると思います。私が常常思うのは、敵を知って自分をよりよく理解出来るのだということです。自分と反対の意見、または賛成できない事柄を敬遠してばかりでは判断のしようがありませんよね。でも敬遠してばかりですよね。彼女の授業の中で知る思想は賛成出来ないものもあれば、納得出来るものもあります。そこから自分の考えを作り上げることが可能になるんです。これはかなりの強みなのではと思っています。

 

さて、昨日拝聴した院の講義で私に一番響いた言葉は「この世に自分に関係の無いものは一つもない」というものでした。例えば明日の天気予報だったり、遠い国で誰かが生まれたことだったり、帰り道の花が咲いたことだったり、どうでもいい、関係ないと思えることも自分に関係するということです。日々を無意味に考えてしまいがちな私には忘れていた感覚でした。明日雨が降って傘を誰かに貸したことによって一生ものの友情が生まれるかもしれない。今日遠い国で生まれた誰かは数年後私と出会う1人なのかもしれない。全ての可能性がないとは言えない。そう思うと、自分に起こった一つ一つ、良かったことも悪かったことも意味があったように思えてなんだか納得出来る気がします。

 

一つ一つを大切に。たまに投げやりになるのもよし。もしかしたらそれが意味のある行為かもしれないから。

 

 

・大人

 

先日、以前のバイト先でお世話になっていた方とご飯に行きました。19歳年齢は離れていますが話していてとても面白い方で、今では上司と部下ではなく、月1で飲みに行く飲み友になっています。海外で暮らしていた時のこと、海外を自転車で旅した体験など私はきっと一生しないであろう経験をたくさんされている方で、色んな気持ちを教えてくれる方です。

当日会うまで、ステーキを食べに行こうという話だったのに、彼に案内されて到着したお店は見るからに高級そうな焼肉屋さん...。何時ものお礼を兼ねてるから会計なんて考えずに食べて!奢りだから!と言われて予約して下さっていたのはコース料理でした。一体幾らするんだか庶民の私には分かりませんでしたが、ご馳走になりました。

食事前に私が、自分の分は払います!と言ったところ「僕も昔、先輩に高級なすき焼きを奢ってもらったことがあってね、その時本当に嬉しかったし、その人の事を今でも尊敬してる。だから今度は貴方が後輩に奢ってあげるんだよ。そうやって人は繋がっていくんだよ。単純だけどね。」とちょっと照れくさそうに笑って話してくれました。

先に述べた経験もそうですが、たまにしてくれるご両親のお話、今の職業に就く前の会社の話、海外で受けた差別のお話...私より19年長く生きてるから、これだけのお話で私が感じ取る以上の色んな気持ちを味わってきたはずです。私が19年後、彼の年齢になった時に、私みたいなちんちくりんにこんなに優しく出来るのかなと思いました。こんな世間知らずで、勉強も出来なくて、友達付き合いも下手で、すぐ独りよがりになる卑屈な奴に、こんなに優しく出来る大人になれるんだろうか。未来がちょっと怖くなりました。

 

何か手に入れたと思える学生生活でなきゃいけないと焦ってとにかく本だけは読もうと、縋るように活字を追ってきました。最近成長したかな、と思うことがあります。世の中めんどくさくて辛くて理不尽なことが絶え間なくて、いっそ何もかも無くなってしまえば良いのにと思うことが多い。でも、気軽に会えて変な話をして笑ったり、美味しいお酒を飲んだり、馬鹿みたいな体験を馬鹿みたいに話して、じゃあまたね、と次があるのが絶対みたいに別れられる人が居るだけで、もう何もかも許せるんじゃないかと思えるようになりました。何か辛かったり独りを感じたりした時は、その時の感情に飲み込まれがちですが、ふっと客観的に自分を見た時に、もう充分じゃないかと肩の力を抜けるような。まぁいっかと言えれば上出来じゃないかと思えるようになりました。

そう言えば、彼の口癖も「まぁいっか」です(笑)塾の業績が悪化して大変なのに「まぁ、いっかな〜って(笑)」っと笑っています。良くないだろ!って時もありますが。でもそういう心持ちだからこんなに素敵な人なんだと思います。とても尊敬している人です。

 

私も19年後、誰かに尊敬して貰えるような人になれていたら、やっと大人になれるのかもしれません。

 

 

・時代?

人間は考える葦である

という名言はあれど、今の自分は何かを真剣に考えて生きているだろうか。私は即座に、はい、と答えることは出来ない。それは非常にもったいないことだと気づく。

森博嗣養老孟司との対談の中で、こんなことを言っていた。

「今の学生たちは、わからないことの答は、検索すればどこかにあると思っていますね。あまり、自分で考えて仮説を立てようとはしない。わからないことは、ネットで検索すれば見つかるはずだと信じているのです。学生に課題を出すと、たしかに一所懸命調べて、集めた情報でなんとか辻褄合わせをしようとする。だけど、それは研究ではありません。(中略)不思議なことがあれば、なにか理由がある。(中略)『どうしてかな?』と不思議に思えば、頭を働かせて想像するでしょう。小さい頃にそういう体験をしていないと、考えない大人になってしまうのではないかという気がします。」

(『文系の壁』著・養老孟司、株式会社PHP研究所、P.47-48より)

以前このブログで紹介した森博嗣の自伝的小説『喜嶋先生の静かな世界』の中で、主人公(森氏本人だと思われる)は3度の食事を忘れる程に研究に没頭していた。主人公が大学生として学んでいた時代ではPCが出始めた頃で、PCでのグラフの描き方などに時間がかかったり、PCの動かし方そのものが研究のようになっていた。

今では、ネットはスマートフォンという形で誰の手の中にも収まるものになり、24時間好きな時に好きなだけ使用することが出来る。それを森博嗣は危惧している。

考えない人間で溢れているのではないか、と。ネットが普通になった今、ネット上には嘘がはびこり本当と区別をつけにくい。嘘を簡単に信じる人も多い。今やPCは輝いていない、TVやラジオと同じありきたりな媒体になってしまった。その媒体に意識を吸い取られ考えふことを止めてしまっていないだろうか。私は止めてしまっている。考える力が弱ってしまっている。

 

私が感じたことは、時代のせいにするのは卑怯だ、ということだ。ネットが手元にあるからと言って考える力がある人はたくさんいる。結局は自分次第なのだ。ネットがあるから発展したことだらけの世界でその恩恵は無視出来ない。伊坂幸太郎の『モダンタイムス』という小説では、ネットで検索することが大変重要なキーとなる。私たちにはネットが必要だ。でもネットを作り出したのは人間であり、人間の脳はPCよりも賢いはずなのだ。それを無駄にしている人が多い。もちろん私も含めて。それはただの甘えだ。

 

胸を張りたい。あぁ考えた、と胸を張りたい。頭を使いすぎて糖分が欲しいな、と言いたい。だから今日から少しずつ考えてみる。千里の道も一歩から、なのだから。